まちの しげより
| 地域 | 東北 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 蒲生家臣 |
| 大名家 | 蒲生氏 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 実戦具足 |
| 武将タイプ | 重臣・城代 |
町野繁仍(1543〜1613)は蒲生氏郷の重臣で、通称は左近。日野時代から氏郷に仕え、伊勢松阪では山田奉行を務めた。会津移封後は猪苗代城・二本松城の城代となり、蒲生秀行の代には白河小峰城の城代を務めた。
目次
出自と氏郷への奉公
町野繁仍は天文12年(1543)の生まれで、慶長18年(1613)に没した。安井吉秀の次男で、近江国蒲生郡の竹田神社の神職の家に生まれたとされる。のちに町野備前守秀長の養子となった。
繁仍は蒲生氏郷の日野時代からの直臣である。氏郷が人質として岐阜の織田信長のもとへ送られた際に従ったとされる。天正10年(1582)の本能寺の変の直後には、氏郷とともに日野城に籠城した。
松阪から会津へ
氏郷が伊勢松阪に移ると、繁仍は山田奉行として伊勢神宮とその門前町の支配に関わった。天正15年(1587)には近江の馬見岡綿向神社に寄進を行っている。
天正18年(1590)、氏郷は奥州仕置により会津へ移封された。繁仍は子の幸和とともに猪苗代城や二本松城の城代を務め、3万8000石を領したとされる。葛西大崎一揆や九戸政実の乱の鎮圧にも出陣した。
秀行・忠郷の時代
文禄4年(1595)に氏郷が没し、子の秀行が跡を継いだ。慶長3年(1598)、蒲生家は宇都宮へ減封された。この時期、繁仍は真岡城で8000石を与えられ、仕置奉行(領内の政務を担う役)を務めた。
慶長6年(1601)に秀行が会津に復帰すると、繁仍は白河小峰城の城代となり、2万8000石を与えられたとされる。蒲生忠郷の代に家督を嫡男の幸和に譲り、郷里の竹田神社に帰った。
「町野左近」の呼び名
繁仍と子の幸和はともに「左近」を名乗った。そのため史料や後世の書物では「町野左近」が父子のどちらを指すのか紛らわしい。国立国会図書館のレファレンス事例も、この点を整理している。
ゆかりの地
- 竹田神社(東近江市):繁仍の生家が神職を務め、晩年に帰った神社
- 猪苗代城跡(猪苗代町):会津移封後に城代を務めた
- 小峰城跡(白河市):蒲生秀行の代に城代を務めた





















