大河ドラマ『豊臣兄弟!』第41回「家康の野望」では、徳川家康がついに上洛して秀吉に頭を下げます。じつは家康は、この上洛からわずか2か月ほどあとに、本拠地を浜松から駿府へ移しています。家康は生涯のうちに、岡崎、浜松、駿府、江戸、そしてふたたび駿府と、何度も本拠地を移しました。この記事では、家康の本拠地の移り変わりを年表で整理し、それぞれの引っ越しの理由と背景を見ていきます。
家康の本拠地は、岡崎(生まれた城)→ 浜松(元亀元年・1570)→ 駿府(天正14年・1586)→ 江戸(天正18年・1590)→ 駿府(慶長12年・1607)と移りました。
浜松から駿府へ移ったのは、秀吉に臣従した天正14年の12月です。西の秀吉と争う必要がなくなって浜松が「最前線」でなくなったこと、駿府が三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の5か国のほぼ真ん中にあったこと、駿河の政治の中心だったことが理由と考えられます。
家康にとって駿府は、少年時代を人質として過ごした町でもありました。晩年に将軍職をゆずったあと、家康は江戸ではなく駿府を選び、そこで一生を終えています。
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家康の本拠地の移り変わり(年表)
まずは、家康がどこを本拠地にしていたのかを年表で見てみましょう。年齢は数え年です。
| 年 | 年齢 | 本拠地 | できごと |
|---|---|---|---|
| 天文11年(1542) | 1歳 | 岡崎城(三河) | 岡崎城で生まれる |
| 天文16年〜永禄3年 | 6〜19歳 | (人質時代) | 尾張の織田家、ついで駿府の今川家で人質として過ごす |
| 永禄3年(1560) | 19歳 | 岡崎城 | 桶狭間の戦いのあと岡崎城に戻り、独立する |
| 元亀元年(1570) | 29歳 | 浜松城(遠江) | 遠江へ進み、引間城を改修して浜松城とする |
| 天正14年(1586) | 45歳 | 駿府城(駿河) | 10月に上洛して秀吉に臣従。12月に駿府へ移る |
| 天正18年(1590) | 49歳 | 江戸城(武蔵) | 小田原攻めのあと、秀吉の命で関東へ移る |
| 慶長3年(1598)〜 | 57歳〜 | 伏見城・大坂城 | 秀吉の死後、政権の中心で政務をとる |
| 慶長8年(1603) | 62歳 | 江戸城 | 征夷大将軍となり、江戸幕府を開く |
| 慶長12年(1607) | 66歳 | 駿府城(駿河) | 将軍職を秀忠にゆずったのち、大御所として駿府へ |
| 元和2年(1616) | 75歳 | 駿府城 | 駿府城で亡くなる |
こうして並べると、家康は大きく分けて5回、本拠地を移していることがわかります。そして、そのうち2回は駿府でした。
岡崎城 ― 生まれた城、人質時代をへて戻った城
家康は天文11年(1542)、三河の岡崎城で松平広忠の子として生まれました。しかし松平家は小さな大名で、東の今川家と西の織田家にはさまれていました。家康は6歳で尾張の織田家に、続いて8歳から駿府の今川義元のもとで人質として過ごします。

永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、19歳の家康は岡崎城に戻り、今川家から独立しました。その後織田信長と同盟を結び、三河をまとめていきます。
浜松城 ― 武田と向き合う最前線へ(元亀元年・1570)
三河をまとめた家康は、今川家の領地だった遠江へ進みます。元亀元年(1570)、家康は岡崎城を長男の信康にまかせ、遠江の引間城を大きく改修して浜松城と名を改め、ここを本拠地にしました。

はじめは遠江の見付(静岡県磐田市)に城を築こうとしたものの、天竜川を背にする場所では、敵に攻められたときに逃げ道がなくなるため、浜松に変えたと伝えられています。浜松は、甲斐の武田信玄が攻めてきたときに真っ先にぶつかる最前線でした。実際に元亀3年(1572)には、浜松城の北の三方ヶ原で信玄に大敗しています(三方ヶ原の戦いをわかりやすく解説)。
家康は浜松城に17年間いて、武田家との戦い、本能寺の変のあとの甲斐・信濃の奪い合い、小牧・長久手の戦いを、ここを本拠地として戦い抜きました。
駿府城 ― 秀吉に下った年の暮れに(天正14年・1586)
家康は天正13年(1585)から駿府に新しい城を築きはじめ、天正14年(1586)12月に浜松から駿府へ移りました。10月に上洛して秀吉に臣従してから、わずか2か月ほどあとのことです。浜松から駿府へ移った理由は、大きく3つあったと考えられます。

理由1 ― 西の秀吉と争う必要がなくなった
浜松は、武田家や西の勢力とぶつかる「最前線」の城でした。しかし武田家は天正10年(1582)に滅び、秀吉とも臣従によって争う理由がなくなりました。西の守りを固める必要が薄れたことで、本拠地を東へ移しやすくなったのです。
理由2 ― 5か国のほぼ真ん中にあった
このころの家康は、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の5か国を治める大大名でした。西の端に近い浜松よりも、駿府のほうが5か国全体を見わたしやすい場所にあります。とくに、本能寺の変のあとに手に入れた甲斐・信濃へは、駿府からのほうが近くなります。
理由3 ― 駿府は駿河の政治の中心だった
駿府は、かつて今川家が本拠地にした町で、駿河の政治や商いの中心でした。東には同盟相手の北条家があり、その動きにも目を配りやすい場所です。そして家康にとっては、少年時代を人質として過ごした、なじみのある町でもありました。
秀吉に頭を下げた家康は、豊臣政権のなかで東国を任される立場になりました。浜松から駿府への移転は、その新しい役目に合わせた引っ越しだったともいえます。秀長との関係は秀長と家康の関係を年表で整理でくわしく見ています。
江戸城 ― 秀吉の命で関東へ(天正18年・1590)
天正18年(1590)、秀吉は小田原攻めで北条氏政らの北条家を滅ぼしました。戦いのあと、家康は北条家の旧領である関東へ移るよう命じられます。それまでの5か国を手放すかわりに、関東の約250万石を与えられたのです。家康は8月1日に江戸に入ったと伝えられます。

この引っ越しは、家康が自分で選んだものではなく、秀吉の命令によるものでした。駿府城には、秀吉の家臣の中村一氏が入っています。なぜ秀吉が家康を関東へ移したのかは、姉妹サイトの秀吉はなぜ家康に関東を任せたのか(日本の歴史ガイド)でくわしく解説しています。
伏見城・大坂城 ― 秀吉の死後、天下の中心で
慶長3年(1598)に秀吉が亡くなると、家康は五大老の筆頭として伏見城で政務をとり、のちに大坂城にも入りました。関ヶ原の戦いに勝ったあと、慶長8年(1603)に征夷大将軍となり、江戸に幕府を開きます。

ふたたび駿府城 ― 大御所として迎えた晩年(慶長12年・1607)
慶長10年(1605)、家康は将軍職を子の徳川秀忠にゆずりました。そして慶長12年(1607)、家康は江戸ではなく駿府を隠居の地に選び、全国の大名を動員する「天下普請」で駿府城を大きく造りかえます。
同じ年の暮れには火事で御殿や天守が焼けましたが、すぐに建て直されました。このとき天守の作事奉行を務めたのが、秀長の家で育った小堀遠州です(秀長の家臣は徳川の世で何をしたのか)。家康は駿府で「大御所」として政治の実権を握り続け、元和2年(1616)4月17日、駿府城で75歳の生涯を終えました。

【考察】家康の引っ越しから見えること
ここからは筆者の考えです。家康の本拠地の移り変わりを並べると、引っ越しの理由がそれぞれ違うことがわかります。
| 移転 | 理由のタイプ |
|---|---|
| 岡崎 → 浜松 | 前線へ出て、敵とじかに向き合うため |
| 浜松 → 駿府 | 戦が終わり、領国の真ん中で治めるため |
| 駿府 → 江戸 | 秀吉の命令で、しかたなく |
| 江戸 → 駿府 | 自分で選んだ、晩年の地 |
とくに印象的なのは、人質として過ごした駿府に、家康が2度も戻ってきていることです。最初は秀吉に下ったあとの新しい本拠地として、2度目は天下を取ったあとの隠居の地として。少年時代に人質として見ていた町を、最後には自分の城下町として治めたことになります。家康にとって駿府は、特別な場所だったのかもしれません。
大河ドラマ『豊臣兄弟!』と家康の駿府移転
第41回「家康の野望」では、家康がついに上洛して秀吉に臣従します。史実では、その年の暮れに家康は浜松から駿府へ移り、豊臣政権のなかで東国を任される大名として新しい一歩をふみ出しました。ドラマのその後で、家康がどこを拠点に描かれるのかにも注目してみてください。放送前の展開予想は第41回「家康の野望」あらすじと展開予想をご覧ください。
まとめ
家康の本拠地は、岡崎、浜松、駿府、江戸、そしてふたたび駿府と移っていきました。浜松は武田と向き合う最前線、駿府は5か国を治める中心、江戸は秀吉に命じられた新しい領地、そして最後の駿府は自分で選んだ晩年の地でした。本拠地の移り変わりをたどると、家康がその時々の立場に合わせて、もっともよい場所を選んできたことが見えてきます。



























