大河ドラマ『豊臣兄弟!』第41回「家康の野望」では、徳川家康がついに上洛します。このとき家康を迎えた屋敷の主は、主人公の豊臣秀長でした。秀長と家康は小牧・長久手で敵として向き合い、上洛では「もてなす側ともてなされる側」になり、やがて同じ大納言として豊臣政権を支える立場に並びます。この記事では、2人の関係を年表で追いかけ、「秀長が生きていたら家康は天下を取れたのか」を考えます。
秀長と家康の関係は、敵(天正12年)→ 客と主人(天正14年)→ 同じ大納言(天正15年)と変わっていきました。秀長は諸大名との取次役として、家康を豊臣政権につなぎとめる役目を担っていたと考えられます。
秀長は天正19年(1591)に52歳で亡くなり、家康はその後25年生きました。秀長が長生きしていれば、家康が動ける余地はずっと小さかったはずです。ただし秀長は家康より2歳年上で、秀吉の死後まで生きていたとしても、家康の「待つ力」に最後まで勝てたかはわかりません。
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秀長と家康の関係を年表で整理
まずは2人の歩みを並べてみます。年齢は数え年です。
| 年 | 秀長 | 家康 | 2人の関係 |
|---|---|---|---|
| 天文9年(1540) | 尾張中村で生まれる | ― | 秀長が2歳年上 |
| 天文11年(1542) | ― | 三河岡崎城で生まれる | |
| 天正12年(1584)45歳 | 兄・秀吉の軍として織田信雄・家康と戦う | 信雄と組み、小牧・長久手で秀吉と戦う | 敵どうし |
| 天正13年(1585)46歳 | 四国攻めの総大将。大和・紀伊などを治め郡山城へ | 第一次上田合戦。重臣・石川数正が出奔 | 秀長は豊臣家の柱に。家康は苦しい年 |
| 天正14年(1586)47歳 | 上洛した家康を自分の屋敷に迎える | 妻に朝日姫を迎え、10月に上洛して秀吉に臣従 | 客と主人 |
| 天正15年(1587)48歳 | 九州攻めで日向方面の大将。8月に権大納言 | 東国を任される。同じ年に権大納言 | 同じ大納言に並ぶ |
| 天正18年(1590)51歳 | 病が重くなり小田原攻めに加われない | 小田原攻めのあと関東へ移る | 顔を合わせる場が減る |
| 天正19年(1591)52歳 | 1月22日、郡山城で亡くなる | 江戸を本拠に関東を治める | 秀長の死 |
| 慶長5年(1600) | ― | 関ヶ原の戦いに勝つ | 秀長の死から9年 |
| 元和2年(1616) | ― | 75歳で亡くなる | 秀長の死から25年 |
並べてみると、2人が同じ舞台に立っていたのは天正12年から天正18年までのわずか6年ほどです。その短いあいだに、関係は大きく変わっていきました。
天正12年 ― 小牧・長久手では敵どうし
最初の2人は敵でした。天正12年(1584)、家康は信長の次男・織田信雄と手を組み、秀吉と戦います。これが小牧・長久手の戦いです。秀長は兄の軍の一翼として、おもに伊勢で信雄方と戦いました。3月中旬に伊勢へ入り、蒲生氏郷らとともに信雄方の城を攻めます。なかでも信雄の家臣・滝川雄利が守る松ヶ島城(三重県松阪市)を開城させたことは、大きな成果だったと伝わっています。松ヶ島城は信雄がかつて本拠にした城で、ここを失ったことは信雄にとって痛手でした。5月以降は尾張西部に移り、加賀野井城や竹ヶ鼻城など、木曽川ぞいの信雄方の城を落とす戦いに加わったとされます。
家康と直接刃を交えた記録は見当たりません。長久手で家康と戦ったのは池田恒興や森長可らで、秀長は「家康の本隊とぶつかる役」ではなく、「信雄の領地を削っていく役」を受け持っていたといえます。
この戦いで家康は長久手の局地戦に勝ちましたが、秀吉は伊勢と尾張の城をつぎつぎに奪って信雄を追いつめ、11月に信雄と先に和睦して家康の戦う理由を失わせます。戦場では家康が強く、政治では秀吉が上手だった。その秀吉の政治を、陰で支えていたのが秀長でした。
天正14年 ― 上洛した家康を、秀長の屋敷で迎える
天正14年10月、秀吉の母・大政所が人質として岡崎へ向かい、それと入れかわるように家康は上洛しました。大坂で家康が泊まったのは秀長の屋敷です。その夜、秀吉がひそかに屋敷をたずねて家康に「明日は諸大名の前で頭を下げてほしい」と頼んだという話が伝わっています。

この逸話がどこまで本当かはわかりません。ただ、家康の宿に秀長の屋敷が選ばれたことには意味があります。家康にとって秀長は、秀吉と自分のあいだに立つ「顔の見える窓口」だったと考えられます。くわしい経緯は大政所の人質事件と家康の上洛、大政所の岡崎行きの名目と実際は大政所の岡崎行きは本当に「見舞い」だったのかにまとめています。
「秀吉は王、秀長は関白、家康は将軍」― 奈良の僧が見た3人
家康の上洛のすぐあと、奈良・興福寺の僧が書いた『多聞院日記』には、秀吉を「王」、秀長を「関白」、家康を「将軍」とたとえる見方が書き留められています(天正14年11月2日条)。
もちろん実際の官職ではなく、世間の見立てです。それでも、秀吉の下で政治をまわすのが秀長、軍事を受け持つのが家康という役割の分け方が、当時の人の目にもはっきり映っていたことがわかります。秀長は諸大名との取次や接待を受け持つ立場で、家康もその相手の一人でした。同じ年の4月、大坂城で秀吉に助けを求めた大友宗麟は、秀吉から「内々のことは宗易(千利休)に、公儀のことは宰相(秀長)に」と告げられたと書き残しています。このことも、秀長のそうした立場をよく示しています。
天正15年 ― 同じ「大納言」に並ぶ
天正15年(1587)8月、秀長と家康はともに従二位・権大納言となりました。秀長は大和郡山を本拠にしたので「大和大納言」、家康は駿府を本拠にしたので「駿河大納言」と呼ばれます。
2年前には敵どうしだった2人が、豊臣政権のなかで同じ位に並んだわけです。秀吉の弟と同じ扱いを受けたことは、家康が「外様の敵」ではなく政権の重鎮として迎えられたことを意味します。逆にいえば、秀長と並べることで家康を政権の内側にしばりつけた、という見方もできます。
天正18年〜19年 ― 秀長の病と死
天正18年(1590)の小田原攻めのころ、秀長はすでに病が重く、大和にとどまっていました。この戦いのあと家康は関東へ移り、江戸を本拠にします。そして翌天正19年1月22日、秀長は郡山城で52歳の生涯を終えました。
秀長の死は、豊臣家にとって大きな転機になりました。同じ年には千利休が切腹し、秀吉の子・鶴松も亡くなります。その後の秀次事件や朝鮮出兵へ続く流れは豊臣秀長の死と秀次事件でくわしく解説しています。
【考察】もし秀長が生きていたら、家康は動けたのか
ここからは筆者の考察です。秀長がもう少し長く生きていたら、家康はどうしたでしょうか。
家康は秀吉の死後、大名どうしの勝手な縁組や、ほかの大老・奉行との対立を通じて少しずつ力を広げていきました。こうした動きをおさえるには、家康と同じくらいの重みがあり、しかも豊臣家の身内である人物が必要です。秀長はまさにその条件にあてはまります。秀長がいれば、石田三成と福島正則・加藤清正らの対立も、もっと早い段階でまとめられたかもしれません。
一方で、秀長は家康より2歳年上です。秀吉が亡くなった慶長3年(1598)に秀長が生きていたとしても59歳、関ヶ原の年には61歳になります。家康が75歳まで生きたことを考えると、秀長が先に亡くなる可能性は高く、家康はやはり「待てば勝てる」立場にあったともいえます。秀長の長生きは家康の天下を「遅らせた」かもしれませんが、「止めた」とまでは言いきれない、というのが筆者の見方です。
秀吉に下った大名のうち、なぜ家康だけが最後に報われたのかは「一度くだって時を待った」戦国大名たちでくわしく比べています。
秀長の家臣は、その後家康のもとへ
秀長と家康のつながりは、秀長の死後も家臣を通じて続きました。その代表が藤堂高虎です。高虎は秀長に見いだされて出世し、秀長の死後は養子の秀保、ついで秀吉に仕えました。そして秀吉の死後は家康に近づき、関ヶ原では東軍として戦います。のちには外様大名でありながら家康から深く信頼されました。
秀長の家で身につけた「調整役」の力が、こんどは家康の天下づくりに生かされたといえるかもしれません。秀長の家臣たちのその後は豊臣秀長の家臣一覧で紹介しています。
大河ドラマ『豊臣兄弟!』の秀長と家康
第41回「家康の野望」では、秀長が家康を迎える場面が大きな見どころになりそうです。ドラマで2人がどんな言葉を交わすのか、そして秀長が家康の「野望」をどう見抜くのかに注目です。放送前の展開予想は第41回「家康の野望」あらすじと展開予想をご覧ください。
まとめ
秀長と家康は、小牧・長久手の敵から、上洛の客と主人へ、そして同じ大納言へと関係を変えていきました。秀長は豊臣政権と家康をつなぐ窓口であり、家康にとっていちばん話の通じる相手だったのかもしれません。秀長が天正19年に亡くなったことで、家康をおさえる身内の重しはひとつ減りました。家康の天下取りを考えるとき、秀長の早すぎる死は見のがせない出来事です。



























