まえの ながやす
| 地域 | 近畿(但馬・出石)、東海(尾張) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 豊臣氏(家臣・出石城主) |
| 大名家 | 前野家 |
| 家紋 | 不詳 |
| 主武器 | 槍 |
| 衣装・甲冑 | 具足・陣羽織 |
| 武将タイプ | 古参の家臣 |
前野長康(まえの ながやす)は、尾張出身の武将で、豊臣秀吉の古くからの家臣である。大永8年(1528年)に生まれ、文禄4年(1595年)に68歳で切腹した。蜂須賀正勝とともに秀吉の出世を支え、のちに但馬の出石城主となった。豊臣秀次の後見役だったため、秀次事件に連座して切腹を命じられた。
3行でわかる前野長康
- 尾張の土豪で、蜂須賀正勝とともに秀吉に仕えた
- 秀吉の播磨・但馬攻めで活躍し、但馬の出石城主となった
- 豊臣秀次の後見役をつとめていたため、秀次事件で切腹を命じられた
目次
秀吉の古参
長康は尾張の前野村の土豪の家に生まれ、蜂須賀正勝らとともに秀吉に仕えた。墨俣一夜城の築城で活躍したとも伝わるが、この話のもとになった『武功夜話』は史料としての信頼性に疑問がもたれている。
出石城主
長康は秀吉の播磨・但馬攻めで活躍し、天正13年(1585年)ごろ但馬の出石城主となった。のちに5万石あまりの大名となり、秀吉の甥・豊臣秀次の後見役(補佐役)をつとめた。
秀次事件と最期
文禄4年(1595年)、関白の豊臣秀次が秀吉から謀反を疑われ、高野山で切腹させられた(秀次事件)。秀次の後見役だった長康も責任を問われ、子の景定とともに切腹を命じられた。秀吉の出世を最初から支えた古参の家臣の、悲しい最期だった。
前野長康をめぐる人物
- 主君:豊臣秀吉
- 仲間:蜂須賀正勝
- 後見した人物:豊臣秀次
- 子:前野景定
ゆかりの地
- 出石城跡(兵庫県豊岡市出石町):長康が城主をつとめた城の地
- 墨俣一夜城(岐阜県大垣市):長康も築城にかかわったと伝わる城


豊臣秀吉
蜂須賀正勝
豊臣秀次






































