天正19年(1591年)、陸奥の北のはずれで、豊臣秀吉の天下統一に最後まで立ち向かった武将がいました。南部家の一族・九戸政実です。主家の南部信直に背いて挙兵した政実に対し、秀吉は甥の豊臣秀次を総大将とする大軍を送り込みました。これが九戸政実の乱(くのへまさざねのらん)です。この戦いが終わったことで、秀吉の天下統一は名実ともに完成したとされます。この記事では、なぜ政実は勝ち目のない戦いに挑んだのか、九戸城の籠城戦はどうなったのかを、わかりやすく解説します。
| いつ | 天正19年(1591年)3月の挙兵から、9月4日の開城まで |
|---|---|
| どこ | 陸奥国の九戸城(岩手県二戸市)とその周辺 |
| 誰と誰 | 九戸政実・九戸実親ら 対 南部信直と豊臣の奥州再仕置軍(総大将・豊臣秀次、蒲生氏郷・浅野長政・井伊直政・堀尾吉晴ら) |
| 兵力 | 九戸方は約5千とされる。九戸城を囲んだ豊臣方は約6万といわれる |
| 結果 | 九戸政実が降伏。政実らは処刑された |
| この後 | 豊臣政権に対する大きな反乱はなくなり、天下統一が完成。南部信直は九戸城を「福岡城」と改めて本拠とし、のちに盛岡城を築く |
九戸政実の乱を3行でいうと
- 南部家の跡継ぎ争いで南部信直と対立した九戸政実が、天正19年に挙兵した
- 秀吉は南部家の内紛ではなく「天下への反乱」とみなし、約6万の大軍を送った
- 九戸城は囲まれて開城し、政実は処刑された。これが秀吉の天下統一の最後の戦いになった
なぜ政実は挙兵したのか — 南部家の跡継ぎ争い
九戸氏は、陸奥の北部を治めた南部氏の一族で、九戸城を本拠とする有力な家でした。政実は武勇にすぐれ、南部家の中でも大きな力を持っていました。
天正10年(1582年)、南部家を大きくした当主・南部晴政が亡くなり、跡を継いだ晴継もすぐに亡くなります。次の当主をめぐって家中は二つに割れ、政実は弟の九戸実親(晴政の娘婿)を推しましたが、結局は一族の南部信直が当主になりました。政実はこれに強い不満を持ち続けたといわれます。
天正18年(1590年)、小田原征伐のあと秀吉が奥州の大名の扱いを決めた「奥州仕置」で、信直は南部家の当主として認められ、九戸氏は信直の家臣という立場に置かれました。政実はこれを受け入れず、翌年の正月、信直のもとへの年始のあいさつを拒んで、背く意思を示しました。
挙兵 — 南部家を二つに割る戦い

天正19年(1591年)3月、九戸方の櫛引清長が南部方の城を攻めたのをきっかけに、政実は約5千の兵で挙兵しました。七戸家国・久慈政則ら、南部一族や周辺の領主にも政実に味方する者が出て、九戸方は信直に味方する城を次々に攻めました。
当時、奥州では葛西・大崎一揆など、奥州仕置に反発する一揆が相次いでいました。自分の力だけでは政実を抑えきれないと考えた信直は、秀吉に助けを求めます。
豊臣の大軍、奥州へ
秀吉はこの反乱を、南部家の内輪もめではなく、自分の天下への反抗とみなしました。6月、甥の豊臣秀次を総大将とする「奥州再仕置軍」を編成し、徳川家康・上杉景勝・前田利家・石田三成・大谷吉継ら、名だたる大名を奥州へ送り込みます。
九戸城へ向かったのは、蒲生氏郷・浅野長政・井伊直政・堀尾吉晴らの軍勢です。これに南部信直、津軽為信、松前慶広など奥州・蝦夷地の大名も加わりました。
九戸城の籠城戦

9月2日、豊臣方の大軍が九戸城を囲みました。九戸城は、西を馬淵川、北を白鳥川、東を猫淵川に囲まれた天然の要害で、九戸方はよく守ったと伝わります。
しかし、圧倒的な兵力の差はどうにもなりません。豊臣方は、九戸氏の菩提寺の僧を使者に立て、「城を明け渡せば城兵の命は助ける」と降伏をすすめました。9月4日、政実は白い死に装束で城を出て降伏したといわれます。
降伏、そして悲劇の伝承

政実と主だった武将たちは、そのまま捕らえられて南へ送られ、陸奥の三迫(宮城県栗原市)で処刑されました。
城に残った人々については、約束は守られず、二の丸に集められて殺され、火をかけられた、という言い伝えがあります。その火は三日三晩燃え続けたといいます。九戸城跡の発掘調査では、刀で傷つけられた跡のある人骨が見つかっていて、この言い伝えとの関係が注目されています。ただし、言い伝えがどこまで事実かは、まだはっきりしていません。
その後 — 天下統一の完成と盛岡藩の始まり
九戸政実の乱が鎮まったことで、秀吉に対する大きな反乱はなくなりました。そのため、この戦いを「秀吉の天下統一の最後の戦い」とする見方があります。
南部信直は、九戸城を修築して「福岡城」と名を改め、しばらく本拠としました。その後、より南の不来方に新しい城を築き始めます。これがのちの盛岡城で、南部家は盛岡藩主として幕末まで続きました。
一方、主家に背いて滅んだ政実は、地元の二戸では「最後まで中央の権力に屈しなかった武将」として語り継がれ、小説の題材にもなっています。
九戸政実の乱のゆかりの地
- 九戸城跡(岩手県二戸市福岡):国の史跡。東北地方では早い時期の石垣が残る
- 九戸政実の首塚(宮城県栗原市):政実が処刑された地と伝わる場所に首塚がある
- 盛岡城跡(岩手県盛岡市):乱の後、南部家が築いた城
この戦いに登場した主な武将(九戸方)
この戦いに登場した主な武将(南部・豊臣方)
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