姉川の戦いをわかりやすく解説|浅井長政はなぜ信長と戦ったのか — 布陣・激戦・「大勝」の真相

姉川の戦いの布陣のイラスト

  • 金ヶ崎の退き口をわかりやすく解説|浅井長政はなぜ信長を裏切ったのか
  • 元亀元年(1570年)の夏、近江の姉川をはさんで、織田信長・徳川家康の連合軍と、浅井長政・朝倉家の連合軍がぶつかりました。これが姉川の戦い(あねがわのたたかい)です。信長の妹・お市を妻にしていた長政が信長を裏切ってから、わずか2か月後の戦いでした。この記事では、なぜ義兄弟が戦うことになったのか、川の中の激戦はどう進んだのか、そして「織田・徳川の大勝」は本当だったのかを、史実にもとづいてわかりやすく解説します。

    姉川の戦いの基本データ
    いつ元亀元年(1570年)6月28日
    どこ近江国の姉川の河原(滋賀県長浜市野村町・三田町のあたり)
    誰と誰織田信長・徳川家康 対 浅井長政・朝倉軍(大将は朝倉景健)
    兵力記録によって大きく違う。織田・徳川方は約1万3千〜4万、浅井・朝倉方は約1万3千〜3万とされる
    結果織田・徳川方の勝利。浅井・朝倉軍は小谷城方面へ退いた
    この後横山城が降伏し、木下秀吉(のちの豊臣秀吉)が城番に。浅井・朝倉は本願寺や比叡山と結んで抵抗を続け、浅井家が滅ぶのは3年後の天正元年(1573年)
    目次

    姉川の戦いを3行でいうと

    • 信長の妹婿だった浅井長政が信長を裏切り、2か月後に近江の姉川で両軍が激突した
    • 川の中での激しい戦いの末、織田・徳川方が勝ち、浅井・朝倉軍は退いた
    • ただし浅井・朝倉にはまだ力が残っていて、決着がつくのは3年後の小谷城の落城だった

    なぜ戦いが起きたのか — 長政の裏切り

    浅井長政は、北近江を治める大名です。永禄10年(1567年)ごろ、信長の妹・お市の方を妻に迎え、織田家と同盟を結んでいました。

    ところが元亀元年(1570年)4月、信長が越前の朝倉義景を攻めると、長政は朝倉方につき、信長の背後を突こうとします。浅井家は昔から朝倉家と深いつながりがあったためとされますが、長政が裏切った本当の理由ははっきりしていません。挟み撃ちの危機に気づいた信長は、わずかな供回りで京へ逃げ帰りました。これが「金ヶ崎の退き口」です。

    体勢を立て直した信長は、6月に北近江へ攻め込みます。長政の本拠・小谷城の城下に火を放ち、小谷城の南にある横山城を囲みました。これを助けようと、浅井軍と朝倉の援軍が出てきたことで、姉川をはさんだ決戦になったのです。

    両軍の布陣 — 川をはさんで東西二つの戦場

    姉川の戦いの布陣のイラスト
    姉川の戦いの布陣(イメージ)。川をはさんで両軍が向かい合った

    6月28日の明け方、浅井・朝倉軍は姉川の北側に陣を敷きました。東側の野村のあたりに浅井軍、西側の三田村のあたりに朝倉軍です。これに対して南側では、浅井軍の正面に信長の本隊と西美濃三人衆(稲葉良通・氏家直元・安藤守就)、朝倉軍の正面に家康の徳川軍が向かい合いました。

    つまり姉川の戦いは、「織田 対 浅井」と「徳川 対 朝倉」という二つの戦いが、並んで同時に行われた合戦でした。

    戦いの経過 — 川の中の激戦

    姉川の戦いの激戦のイラスト
    川の中で両軍が入り乱れた激戦(イメージ)

    戦いは朝の6時ごろに始まったとされます。浅井・朝倉軍が川を渡って攻めかかり、川の中や河原で両軍が入り乱れる激しい戦いになりました。

    特に浅井軍の勢いはすさまじく、織田軍は何段もの備えを次々に崩されたと伝わります。浅井家の重臣・磯野員昌の突撃で織田の陣が十三段のうち十一段まで破られたという「姉川十一段崩し」の話は有名ですが、これは後の時代の軍記物に見える話で、そのまま事実とは言えません。

    朝倉軍の中では、大太刀をふるった豪傑・真柄直隆とその弟(または子)の真柄直澄が奮戦し、討ち死にしました。熱田神宮には「真柄の大太刀」と伝わる長大な刀が残っています。

    勝敗を分けたもの — 徳川軍の側面攻撃

    姉川の戦いで徳川軍が側面を突く場面のイラスト
    徳川軍が朝倉軍の側面を突いた場面(イメージ)

    徳川家の記録などによれば、家康は朝倉軍との戦いで、榊原康政らに命じて朝倉軍の側面を突かせました。この攻撃で朝倉軍が崩れ、それを見た浅井軍も総崩れになった、と伝えられています。織田方では、美濃の稲葉良通らが浅井軍の横から攻めかかったともいいます。

    浅井軍では、長政の重臣・遠藤直経が討ち死にしました。直経は織田方の兵になりすまして信長に近づこうとしたところを見破られ、竹中重矩(竹中半兵衛の弟)に討たれたと伝わります。

    のちに旗本・小栗家の祖となる小栗忠政が、この戦いで家康の危機を救ったという話も残っています。

    本当に「大勝」だったのか

    信長は戦いの直後に出した書状で、大勝を伝えています。ただ、浅井・朝倉方の戦死者の数は千人あまりから八千人まで、記録によって大きく違います。

    ただ、信長は勝ったあと小谷城を攻め落とすことはできず、横山城を手に入れるにとどまりました。浅井・朝倉軍はこの年の秋には比叡山の僧兵や石山本願寺と結んで、信長を苦しめます(志賀の陣)。そのため近年では、「織田・徳川方が勝ったのは確かだが、浅井・朝倉に決定的な打撃を与えたわけではなかった」という見方が一般的です。

    また、浅井・朝倉軍が一度引き上げるふりをしてから、明け方に不意を突いて攻めかかったため、織田軍は陣形を整えないまま戦うことになった、とみる研究者もいます。

    「姉川の戦い」は徳川家の呼び方

    実はこの戦い、当時は別の名前で呼ばれていました。織田家や浅井家は「野村合戦」、朝倉家は「三田村合戦」と呼んでいます。いずれも戦場の村の名前です。

    「姉川の戦い」という呼び名は、徳川家の記録で使われたもので、江戸時代に徳川家康の活躍とともに広まりました。徳川家の記録では家康の働きが大きく描かれているので、読むときには少し割り引いて考える必要があります。

    その後 — 小谷城の落城へ

    姉川の戦いのあと、信長は横山城に木下秀吉(のちの豊臣秀吉)を置き、小谷城の浅井家ににらみをきかせました。秀吉はここで浅井家の家臣を次々に味方に引き入れ、のちに浅井家の旧領を与えられて長浜城主になります。

    浅井・朝倉家は、武田信玄や本願寺と結んで「信長包囲網」の一角として抵抗を続けました。しかし天正元年(1573年)、信玄が亡くなると情勢は一変し、8月に朝倉家、続いて9月に浅井家が滅びます。長政は小谷城で自害し、お市と三人の娘(茶々・初・江)は城から救い出されました(「【豊臣兄弟!】第17回「小谷落城」あらすじと振り返り」参照)。

    大河ドラマ『豊臣兄弟!』では

    2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、第15回「姉川大合戦」でこの戦いが描かれました。秀吉・秀長の兄弟にとっては、のちに長浜の城主へと出世していく足がかりになった戦いでもあります(「【豊臣兄弟!】第15回「姉川大合戦」あらすじと振り返り」)。

    姉川の戦いのゆかりの地

    小谷城跡から見た湖北の平野と琵琶湖
    小谷城跡から見た湖北の平野。姉川の戦場もこの平野の中にある(筆者撮影)
    小谷城跡のふもとにある記念碑
    小谷城跡のふもとの記念碑(筆者撮影)
    長浜城(長浜城歴史博物館)
    姉川の戦いのあと、秀吉が城主となった長浜。現在の長浜城は博物館として再建されたもの(筆者撮影)
    • 姉川古戦場(滋賀県長浜市野村町):野村橋のたもとに古戦場の碑が立つ
    • 血原(長浜市三田町):激戦地と伝わる場所。近くにはかつて「血川」と呼ばれた小川もあった
    • 小谷城跡(長浜市湖北町):浅井家の本拠。日本五大山城の一つに数えられることもある
    • 横山城跡(長浜市・米原市):戦いのあと秀吉が城番となった城
    • 姉川合戦図屏風(福井県立歴史博物館):この戦いを描いた屏風。公開は毎年夏の一時期

    筆者のひとこと

    小谷城跡を歩いてみると、とにかく高い。本当の山城です。「クマ注意」という看板まで立っていました。

    この戦いに登場した主な武将(織田・徳川方)

    この戦いに登場した主な武将(浅井・朝倉方)

    ※当サイトの合戦イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが場面や構図を指定して制作した想像図です。実際の布陣や装束をそのまま再現したものではありません。

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