南殿とは?長浜時代に秀吉の子を産んだとされる側室|石松丸秀勝の母、竹生島奉加帳に残る名と諸説

琵琶湖のほとりで長浜城と竹生島を望む南殿(イメージ)

豊臣秀吉の子といえば、淀殿(茶々)が産んだ鶴松と秀頼がよく知られています。しかし秀吉には、それよりずっと前、長浜城主だった30代のころに子をもうけたとされる女性がいました。それが南殿(みなみどの)です。

南殿は、秀吉の最初の男子・石松丸秀勝と、女の子の母とされる長浜時代の側室です。ただし史料はごくわずかで、名前以外はほとんどわかっていない、謎の多い女性でもあります。この記事では、南殿について確かなこと、伝えられていること、議論のあることを分けて整理します。

南殿のプロフィール(わかっていること・伝えられていること)

  • 立場:長浜城主時代の羽柴秀吉の側室とされる
  • 史料:竹生島(宝厳寺)に伝わる「竹生島奉加帳」に「南殿」の名が見える
  • 子:石松丸秀勝(天正4年〈1576〉没)と女の子の母とする説がある。どちらも幼くして亡くなった
  • 出自:不明(鳥取城主・山名豊国〈禅高〉の娘とする説もあるが、豊国の娘は鳥取攻めのころ〈1580年ごろ〉に秀吉のもとに来た「南の局」とされる別人で、長浜時代の南殿とは時期が合わない)
  • その後:子を失ったのち竹生島で出家し、寛永11年(1634)に亡くなったと伝えられる(確かな裏づけは乏しい)
目次

南殿とは — 長浜時代の秀吉の側室

天正元年(1573)、浅井氏が滅ぶと、秀吉は信長から北近江の浅井旧領を与えられ、琵琶湖のほとりに長浜城を築きました。秀吉にとって初めての「一国一城の主」の時代です。弟の秀長もこのころ、兄を支えて領国づくりにあたっていました。

南殿は、この長浜時代に秀吉のそばにいたとされる女性です。「南殿」というのは本名ではなく、住まいの場所などにちなんだ呼び名と考えられます。正室の寧々(のちの北政所)が「御内方」と呼ばれたのに対し、南殿は城内の南の御殿に住んだ女性、という意味だったのかもしれません。

南殿の名が残る「竹生島奉加帳」

南殿の存在を伝えるほとんど唯一の史料が、琵琶湖に浮かぶ竹生島の宝厳寺に伝わる「竹生島奉加帳」です。奉加帳とは、寺社への寄進者と寄進の額を書き連ねた帳面のこと。長浜城主だった秀吉は、その家族とともに竹生島に寄進をしており、そこに次のような名前が並んでいます。

  • 御内方:秀吉の正室・寧々
  • 大方殿:秀吉の母・なか(のちの大政所)
  • 石松丸:秀吉の子とされる男の子
  • 南殿

秀吉の家族と同じ並びに、石松丸と南殿の名がある。ここから歴史学者の桑田忠親氏は、南殿を秀吉の側室で、石松丸の生母と推測しました。これが「南殿=石松丸の母」説の出発点です。

琵琶湖のほとりに立つ南殿と長浜城、竹生島(イメージ)
長浜城と竹生島を望む南殿(イメージ)

南殿が産んだとされる子 — 石松丸秀勝と女の子

石松丸秀勝

石松丸は、秀吉の最初の男子とされる子です。天正2年(1574)ごろに生まれ、天正4年(1576)10月14日、数えで3歳ほどで亡くなりました。「秀勝」の名を与えられており、秀吉はその後も、養子とした信長の四男や甥に、くり返し「秀勝」の名をつけています。長浜の妙法寺には天正4年の銘をもつ供養塔が伝わり、徳勝寺には「本光院朝覚居士」の法名を記した位牌が残ります。くわしくは石松丸秀勝の記事にまとめています。

名前の伝わらない女の子

石松丸のほかに、南殿は女の子も産んだとされます。この子も幼くして亡くなったと伝わりますが、名前も生没年もわかっていません。

石松丸と女の子が本当に南殿の子だとすれば、秀吉は30代のうちに、男女ふたりの子の父となり、そしてふたりとも失ったことになります。

本当に石松丸の母? — 南殿をめぐる議論

「南殿=石松丸の母」は有力な説ですが、確定しているわけではありません。

  • 反対の見方:服部英雄氏は、奉加帳の南殿の寄進額が側室にしては少ないことから、そもそも側室だったのかを疑問視し、石松丸の母とする根拠はないと指摘しています
  • ほかの母の候補:浅井家の祐筆・石田長楽庵の娘とされる「於葉(およう)の方」を母とする説や、妙法寺に伝わる松の丸殿(京極竜子)説もあります。ただし竜子が秀吉の側室になったのは天正11年(1583)ごろとみられ、時期が合いません
  • 石松丸自体が実子か:石松丸が秀吉の実の子だったのか、養子だったのかについても、研究者の見方は分かれています

つまり南殿は、「長浜時代の秀吉の身近に、南殿と呼ばれる女性がいた」ことは史料から確かめられるものの、その立場や子との関係には推測の部分が残る人物です。

寧々と南殿 — 子のない正室と、子を産んだ側室

長浜時代、秀吉と寧々の夫婦はすでに10年以上連れ添っていましたが、ふたりのあいだに子はいませんでした。そこに側室の南殿が男の子を産んだのだとすれば、寧々の胸中は穏やかではなかったでしょう。

この時期の寧々については、信長が寧々にあてて「あのはげねずみ(秀吉)が、そなたほどの妻に不満を言うのはけしからぬ」という趣旨の手紙を送った話がよく知られています。秀吉の女性関係について、寧々が信長に訴えたことへの返事と考えられており、長浜時代の夫婦のあいだに波風があったことがうかがえます。この手紙と南殿を直接結びつける史料はありませんが、同じ時代のできごとです(北政所(ねね))。

南殿のその後 — 竹生島で出家したという伝え

二人の子に先立たれた南殿は、竹生島の宝厳寺で出家し、江戸時代の寛永11年(1634)まで生きたと伝えられます。ただし、この伝えの確かな典拠ははっきりしません。しかも寛永11年は、秀吉の側室・松の丸殿(京極竜子)が亡くなった年と同じです。石松丸の母を松の丸殿とする寺伝があることも考えると、二人の伝えが混ざっている可能性も否定できません。もし事実なら、南殿は秀吉の死も、豊臣家の滅亡も、遠く琵琶湖の島から見届けたことになります。

南殿が「秀吉の子」の謎に投げかけるもの

秀吉の子をめぐっては、「多くの側室がいたのに、子を産んだのは淀殿だけ。だから鶴松・秀頼は秀吉の子ではないのでは」という説が古くからあります(茶々の子は本当に秀吉の子か?)。

しかし、長浜時代に南殿が石松丸と女の子を産んでいたとすれば、秀吉はもともと子をもうけることができた、ということになります。南殿の存在は、のちの淀殿の子をめぐる議論にもかかわってくるのです。

よくある質問

Q. 南殿の読み方は?

A. 「みなみどの」と読みます。本名ではなく、呼び名と考えられます。

Q. 秀吉の子を産んだ女性は誰と誰?

A. 確実なのは淀殿(茶々)で、鶴松と秀頼を産みました。長浜時代の南殿も、石松丸と女の子を産んだとする説が有力です。正室の寧々には子がありませんでした。

Q. 南殿の墓はどこ?

A. 南殿本人の墓所ははっきりしません。子とされる石松丸の供養塔は、長浜市の妙法寺に伝わっています。

まとめ

南殿は、長浜城主時代の秀吉の側室とされ、秀吉の最初の子・石松丸秀勝と女の子の母と考えられている女性です。その名を伝えるのは竹生島奉加帳ほぼ一つで、出自も生涯もほとんどわかっていません。それでも南殿の存在は、天下人になる前の秀吉にも「父としての喜びと悲しみ」があったことを、静かに伝えています。

秀吉の子ども全体については豊臣秀吉の子どもは何人?、茶々がなぜ秀吉の側室になったのかはこちらで解説しています。

各武将の生涯や関連する合戦・事件については、姉妹サイトでもくわしく解説しています。あわせてご覧ください。→ 戦国ヒストリー(姉妹サイト)

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