よしだ まさしげ
| 地域 | 四国・近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 長宗我部家臣 |
| 大名家 | 長宗我部 |
| 家紋 | 丸に三ツ柏 |
| 主武器 | 大槍・太刀 |
| 衣装・甲冑 | 黒塗具足 |
| 武将タイプ | 「大坂の陣」・忠臣 |
長宗我部盛親の最側近。長宗我部家改易後も盛親を支え、大坂の陣に参戦して長宗我部軍の再興に命を懸けた。
長宗我部氏に仕えた吉田氏
吉田政重は、土佐の戦国大名・長宗我部氏に仕えた武将である。長宗我部家中には元親以来の譜代の家臣が多くあり、吉田氏もその一角を占めた。政重は元親の四男として家督を継いだ長宗我部盛親に近侍し、その最側近の一人として主君を支える立場にあった。土佐一国を治めた長宗我部氏の家臣団のなかで、政重は主家と運命をともにする忠臣であった。
関ヶ原の敗戦と主家の改易
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、長宗我部盛親は西軍に属した。戦いは東軍の勝利に終わり、さらに家中の内紛も重なって、盛親は土佐一国を没収され改易の憂き目にあう。大名家としての長宗我部氏は事実上取り潰され、盛親は京で牢人として不遇の日々を送ることになった。多くの家臣が離散するなかで、吉田政重は主君のもとにとどまり続けた。
主従の絆と浪々の日々
土佐二十数万石を失った盛親に、かつての栄華はもはやなかった。それでも吉田政重は改易後の主君を見捨てず、困窮のなかにあってなお盛親を支え続けたと伝えられる。禄を失った主家に殉じるように仕え続けた政重の姿は、利害を超えた戦国武士の主従の絆の深さを示すものであった。長宗我部再興のかすかな望みは、こうした忠臣たちの支えによってかろうじて保たれていた。
大坂の陣と長宗我部再興の夢
慶長十九年(1614)、豊臣と徳川が激突する大坂の陣が起こると、長宗我部盛親は再興の好機とみて大坂城へ入った。吉田政重もこれに従って参陣し、旧臣たちとともに長宗我部軍の一員として徳川方と戦った。しかし大坂城は落城し、盛親は捕らえられて処刑され、長宗我部再興の夢はついえた。主君に最後まで従った政重の生涯は、滅びゆく大名家に殉じた家臣の物語として記憶されている。
土佐武士の気風
長宗我部氏の家臣団は、一領具足と呼ばれる半農半兵の武士たちに支えられた、結束の固い集団として知られる。主家が改易されてなお盛親を慕い、大坂の陣にはせ参じた旧臣が少なくなかったのも、こうした土佐武士の強い主従意識の表れであった。吉田政重の生き方は、その土佐武士の気風を体現するものであったといえる。










































