ゆふ これのぶ
| 地域 | 九州 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 大友家臣・立花家臣 |
| 大名家 | 立花 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 大槍 |
| 衣装・甲冑 | 実戦具足 |
| 武将タイプ | 重臣・猛将 |
由布惟信は豊後出身の武将で、戸次鑑連(立花道雪)とその養子立花宗茂の二代に仕えた立花家の重臣である。多くの合戦に従ったと伝わる。柳河では酒見城を任され、関ヶ原後に改易された宗茂にも付き従い、棚倉で没したとされる。
目次
豊後由布氏の出身
由布惟信は豊後国速見郡の由布氏の出身である。由布氏は湯布院(現在の由布市)周辺を本拠とする大友氏の家臣であった。惟信は次男で、家督を兄に譲り、大友氏の重臣戸次鑑連に仕えたとされる。
戸次鑑連はのちに筑前の立花城を任され、立花道雪と呼ばれた。惟信は道雪の家老の一人として、筑前・筑後での戦いに従った。
道雪の家老として
大友氏は筑前で毛利氏や秋月氏、龍造寺氏と争った。惟信は永禄年間の筑前での戦いや、天正12年(1584)の筑後への出兵などに加わったとされる。
立花家の伝承では、惟信は生涯に65回の合戦に出て65か所の傷を受け、感状(戦功を認める文書)を約70通受けたという。これらは家伝・後世の編纂物に基づく話である。天正13年に道雪が陣中で没したのちは、養子の宗茂を支えた。
天正14年(1586)、島津氏が筑前に攻め込み、宗茂は立花城を守り抜いた。
宗茂とともに
天正15年(1587)、宗茂は豊臣秀吉から筑後柳河13万石を与えられた。惟信は3,500石を与えられ、酒見城(現在の大川市)を任されたとされる。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで宗茂は西軍に属し、改易された。惟信は浪人となった宗茂に従った。宗茂が陸奥棚倉で大名に復帰すると、子の惟次とともに藩政にあたった。惟信は陸奥赤館(現在の棚倉町)で没したとされる。
宗茂は元和6年(1620)に柳河藩主へ復帰した。惟信の子孫も柳河藩の家臣として続いたとされる。
ゆかりの地
- 湯布院(由布市):由布氏の本拠とされる地
- 酒見城跡(大川市):柳河時代に惟信が任されたとされる城
- 赤館跡(棚倉町):宗茂の棚倉時代の居館で、惟信が没したとされる地





















