しまづ よしひろ
| 地域 | 九州 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 島津氏 |
| 大名家 | 島津氏 |
| 家紋 | 丸に十の字 |
| 主武器 | 大太刀・大槍 |
| 衣装・甲冑 | 漆黒重厚具足 |
| 武将タイプ | 勇猛・鬼神 |
島津義弘は薩摩国の名門・島津氏の当主・島津貴久の次男として生まれた。兄・義久を当主に戴きつつも、義弘自身は島津軍最強の猛将として数々の合戦の最前線に立ち続けた。九州統一を目指す島津氏の遠征において、木崎原の戦いではわずかな兵で伊東氏の大軍を打ち破るなど、若くしてその武勇を天下に示した。
1587年の豊臣秀吉による九州征伐では、圧倒的な兵力差の前に島津家は降伏を余儀なくされるが、義弘はその後も文禄・慶長の役に従軍し、朝鮮の泗川の戦いにおいてはわずか7千の兵で明・朝鮮連合軍20万ともいわれる大軍を打ち破るという驚異的な戦果を挙げ、「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と敵国からも恐れられた。
関ヶ原の戦いでは西軍に与するが、実際の戦闘参加を強く求められず孤立無援の状況に陥る。戦局が東軍勝利に決すると、島津軍はもはや退路を断たれた状況の中、正面の敵中を真っ向から突破して戦場を離脱するという前代未聞の敵中突破「島津の退き口」を敢行した。この決死の撤退戦で島津軍は多くの将兵を失いながらも、義弘自身は薩摩へと生還を果たした。
敗軍でありながら本領を安堵されるという異例の結果に終わったのは、これ以上薩摩へ攻め込めば甚大な被害が予想されるとして、徳川家康が島津氏との和睦を選んだためとされる。この対応の裏には、義弘の島津軍が見せた鬼神の如き武勇への畏怖があったともいわれる。
晩年は薩摩に戻り、朝鮮出兵で得た陶工たちによる薩摩焼の振興など文化面にも貢献した。1619年に85歳という長寿を全うし、その勇猛さと不屈の精神は、幕末に至るまで薩摩藩士たちの精神的支柱として語り継がれることとなった。

