天下統一へと突き進む羽柴秀吉は、天正13年(1585年)、武家ではなく公家の最高位である関白(かんぱく)に就任し、翌年には朝廷から「豊臣(とよとみ)」という新しい姓を与えられました。農民出身とも伝えられる秀吉が、いかにして貴族社会の頂点に立ち、そして独自の姓を得て名実ともに天下人となったのか。その経緯を、わかりやすく解説します。
関白相論——公家の座をめぐる争い
関白は、天皇を補佐して政務を統べる、公家社会の最高の職です。本来、藤原氏の流れをくむ「五摂家(ごせっけ)」だけが就くことのできる、きわめて格式の高い地位でした。
天正13年(1585年)、この関白の座をめぐって、五摂家の二条昭実(にじょう あきざね)と近衛信輔(このえ のぶすけ)が激しく対立する事態が起こりました。これを「関白相論(かんぱくそうろん)」といいます。両者の争いはこじれ、朝廷は解決に苦慮します。
秀吉、近衛前久の猶子となって関白へ
この争いに、時の実力者・羽柴秀吉が調停者として介入しました。そして驚くべきことに、争いを収める形として、秀吉自身が関白に就任するという決着がつけられたのです。
ただし、武家の秀吉がそのまま関白になることはできません。そこで秀吉は、五摂家の筆頭・近衛前久(このえ さきひさ)の猶子(ゆうし=形式上の養子)となって藤原姓を得たうえで、天正13年(1585年)7月11日、ついに関白の座に就きました。血筋を問わず頂点に立つ、鮮やかな政治的手腕でした。
なぜ将軍ではなく関白だったのか
武家の頂点といえば、通常は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)です。ではなぜ秀吉は、将軍ではなく関白を選んだのでしょうか。
一つには、将軍職が源氏の棟梁に受け継がれてきた慣例があり、出自の定かでない秀吉には就きにくかったこと。もう一つには、関白として天皇の権威を背景に全国の大名に号令をかけるほうが、秀吉の構想に適していたことが挙げられます。実際、秀吉は関白の権威をもって、大名同士の私闘を禁じる「惣無事令(そうぶじれい)」を発し、全国統一の大義名分を得ていきました。
新しい姓「豊臣」の下賜
関白就任の翌年、天正14年(1586年)、秀吉は朝廷から太政大臣(だいじょうだいじん)に任じられるとともに、まったく新しい姓「豊臣」を賜りました。
当時、日本の姓(本姓)は源・平・藤原・橘の四姓が基本でした。秀吉が得た「豊臣」は、これらに並ぶ五番目の姓として新たに創設されたもので、既存のどの家系にも属さない秀吉が、自らを始祖とする新しい貴種となることを意味しました。以後、秀吉は「豊臣秀吉」と名乗り、弟の秀長や甥の秀次らも豊臣姓を称します。
「豊臣」がもたらしたもの
関白という朝廷の最高職と、「豊臣」という独自の姓——この二つを手にしたことで、秀吉は武力だけでなく、天皇の権威に裏打ちされた正統性をも備えた、名実ともの天下人となりました。
豊臣政権は、この関白の地位を核として全国の大名を従え、九州平定・小田原征伐・奥州仕置へと天下統一を完成させていきます。秀吉の関白就任と豊臣賜姓は、戦国の実力の世から、朝廷の権威を頂く新たな統一政権への転換を象徴する、歴史の大きな節目だったのです。
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