下間頼秀 | 証如の側近として加賀と畿内で戦った本願寺の坊官

下間頼秀

しもつま らいしゅう

地域近畿
所属勢力・属性本願寺家臣
大名家本願寺
家紋―
主武器太刀・行政書状
衣装・甲冑高級僧衣
武将タイプ強硬派・追放

下間頼秀は戦国時代前期の本願寺の坊官で、宗主証如の執奏役を務めた。父は下間頼玄、弟は頼盛。加賀の大小一揆で本願寺中央の支配を確立させ、天文の錯乱では細川晴元と戦った。和睦の中で失脚し、1538年に近江で暗殺された。

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証如の側近

下間頼秀は本願寺の坊官(寺の家臣)である。父は下間頼玄、弟は頼盛。通称は筑前守、法名は実恵という。読みは「らいしゅう」とも「よりひで」ともされる。生年は分かっていない。

大永元年(1521年)ごろから本願寺に仕え、加賀の軽海荘の代官も務めた。10代宗主の証如のもとで執奏役(宗主への取り次ぎ役)となり、幼い証如を支える側近の中心となった。

加賀の大小一揆

当時の加賀では、蓮如の子らが開いた賀州三ヶ寺が強い力を持っていた。本願寺中央はこれを抑え、証如の系統の地位を固めようとした。

享禄4年(1531年)、頼秀は弟の頼盛を加賀へ送り、超勝寺実顕らと結んで賀州三ヶ寺と戦った。これを大小一揆(享禄の錯乱)という。本願寺中央の側(大一揆)が勝ち、加賀は本願寺中央の支配下に入った。大一揆・小一揆の呼び名は、本願寺中央と結んだ超勝寺・本覚寺の側を「大」、賀州三ヶ寺の側を「小」と呼んだことによる。

天文の錯乱

天文元年(1532年)、頼秀は細川晴元の要請を受け、畿内の門徒を率いて畠山義宣・三好元長を討った。しかしその後、本願寺と晴元は対立した。山科本願寺が焼かれ、本願寺は大坂へ拠点を移し、晴元との戦いが続いた。これを天文の錯乱という。

失脚と暗殺

天文4年(1535年)、証如は晴元と和睦した。主戦派だった頼秀は、この和睦の過程で責任を問われ、父・弟とともに失脚し、本願寺を去った。

天文7年(1538年)3月20日、頼秀は近江で殺された。証如の送った刺客によるとされる。この経緯は、証如の日記『天文日記』などに記されている。

ゆかりの地

  • 山科本願寺跡(京都市山科区):天文元年に焼かれた本願寺の旧本拠。天文の錯乱の舞台

参考にした資料

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