淡河定範 | 播磨淡河城主。三木合戦で別所方として戦う

淡河定範

おおご さだのり

地域近畿
所属勢力・属性播磨淡河氏・別所系
大名家播磨淡河氏
家紋―
主武器太刀・奇策
衣装・甲冑武骨具足
武将タイプ「牝馬の奇策」・老将

淡河定範は播磨淡河城(神戸市北区)の城主である。三木合戦では別所長治方につき、天正7年(1579)に羽柴秀長の軍を退けたと伝わる。牝馬を放って敵の馬を乱した話は軍記物などが伝えるもので、最期にも諸説がある。

目次

淡河氏と淡河城

淡河城は、播磨国美嚢郡淡河(現在の神戸市北区淡河町)の淡河川に面した段丘上にあった城である。淡河氏代々の居城とされるが、その詳細はよくわかっていない。主郭は東西約55メートル、南北約70メートルで、南と西に堀と土塁が築かれていた。

定範は弾正忠(弾正少輔とも)を称した。備前の江見氏の出身で、淡河氏の養子になったとする説がある。三木城主別所長治とは姻戚関係にあったとされる。生年は不明である。

三木合戦と淡河城の戦い

天正6年(1578)、別所長治は織田信長から離反し、三木城(兵庫県三木市)に籠もった。羽柴秀吉は三木城を囲み、補給を断つ長期戦をとった。これが「三木の干殺し」と呼ばれる三木合戦で、天正8年(1580)1月の開城まで続いた。

天正7年(1579)5月、秀吉の弟羽柴秀長の軍が淡河城を攻めた。『播州太平記』『別所記』などの軍記物によれば、定範は外曲輪に菱(とげのある鉄製の道具)をまき、あらかじめ集めていた牝馬を城から一斉に放った。寄せ手の牡馬が乱れ、秀長勢は退いたという。この場面は三木市の法界寺に伝わる「三木合戦絵図」にも描かれている。ただし、同時代の古文書で確かめられる話ではない。

定範はその後、秀吉の大軍が来ることを予想し、淡河城に火を放って三木城に移ったと伝わる。淡河城の周囲には、秀吉方の付城(包囲のために築く陣城)が築かれた。

最期をめぐる諸説

定範の最期ははっきりしない。天正7年9月10日、三木城への兵糧搬入をめぐる戦いで羽柴勢に敗れ、自刃したとする説がある。一方で、その後も生き延びたとする説もある。三木市の八幡森史蹟公園には、定範が自刃した場所とされる地に「淡河弾正の墓」が建てられている。

三木合戦の後、淡河城は有馬氏の居城となり、慶長6年(1601)まで使われた。

ゆかりの地

  • 淡河城跡(兵庫県神戸市北区):定範の居城
  • 淡河弾正の墓(兵庫県三木市・八幡森史蹟公園):定範が自刃した場所と伝わる地

参考にした資料

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