神保氏張 | 越中守山城主。上杉・織田(佐々)・徳川に仕える

じんぼう うじはる

地域北陸
所属勢力・属性神保氏・佐々系
大名家神保氏
家紋―
主武器太刀
衣装・甲冑実戦具足
武将タイプ剛毅・不屈

神保氏張は越中守山城(富山県高岡市)を本拠とした武将である。能登畠山氏の出身とされ、神保氏の庶流を継いだ。上杉謙信に服属したのち織田方に転じ、佐々成政の与力として越中平定に加わった。成政の没落後は徳川家康に仕えた。

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出自と守山城

氏張は享禄元年(1528)に生まれた。江戸幕府が編んだ系譜集『寛政重修諸家譜』は、能登守護畠山義隆の次男で、神保氏純の養子になったとする。神保氏重の子とする説もある。名は氏春とも書く。

越中の神保氏は、室町時代に守護畠山氏のもとで守護代を務めた家である。戦国時代には富山城を拠点とした神保長職の系統が知られる。氏張はこれとは別の庶流で、射水郡の守山城(高岡市)を拠点とした。長職とは対立した時期がある。

上杉から織田へ

16世紀後半の越中は、越後の上杉謙信、一向一揆、のちに織田信長の勢力がぶつかる地であった。天正4年(1576)に謙信が越中に進むと、氏張も攻められ、翌年には謙信に服属した。

天正6年(1578)に謙信が急死すると、越中の情勢は大きく変わった。氏張は信長に接近し、織田方として越中平定に加わった。天正9年(1581)に佐々成政が越中を与えられると、その与力(配下に付けられた武将)となった。成政の娘が氏張の子に嫁いでおり、両者の結びつきは強かった。

肥後移封と徳川家臣として

天正15年(1587)、成政は豊臣秀吉から肥後(熊本県)を与えられ、氏張もこれに従った。これより前の天正13年(1585)、成政は秀吉の大軍に富山城を囲まれて降伏し、越中の大半を失っていた。肥後では入国直後に国衆一揆が起こり、成政は責任を問われて翌年切腹した。

主を失った氏張は、のちに徳川家康に仕えた。天正17年(1589)に下総国香取郡で2000石を与えられたとされる。天正20年(文禄元年、1592)8月5日に65歳で没した。子孫は江戸幕府の旗本として続いた。

ゆかりの地

  • 守山城跡(富山県高岡市):氏張の本拠

参考にした資料

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