豊臣秀吉には、実の子がなかなか生まれませんでした。そのかわりに秀吉は、甥や主君の子、同盟相手の子など、たくさんの子を養子や猶子(名目上の子)として迎えています。大河ドラマ『豊臣兄弟!』第40回では、家康が妹・あさひとの縁組を受け入れる理由として、すでに秀吉の養子となっていた於義伊(のちの結城秀康)との「交換」という形が示されました。この記事では、秀吉の養子・猶子を一覧にして、それぞれがどこから来て、その後どうなったのかを整理します。
秀吉が迎えたおもな養子・猶子は、於次秀勝(織田信長の四男)、豊臣秀勝(小吉)・豊臣秀次(姉ともの子)、結城秀康(徳川家康の次男)、宇喜多秀家(宇喜多直家の子)、小早川秀秋(妻・寧々の甥)、豪姫(前田利家の娘)、八条宮智仁親王(皇族)などです。
迎えた理由は、跡継ぎにするためだけではありません。主君の家とのつながりを示すため、同盟相手からの人質として、大名家を味方につけるためなど、ねらいはさまざまでした。
しかし、鶴松・秀頼という実子が生まれると、養子たちの立場は大きく変わります。秀次は切腹し、秀康や秀秋はほかの家へ養子に出されました。
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秀吉の養子・猶子一覧
| 名前 | 実の親 | 秀吉の子になった時期 | その後 |
|---|---|---|---|
| 於次秀勝(羽柴秀勝) | 織田信長(四男) | 天正6年(1578)ごろ | 丹波亀山城主。天正13年(1585)、18歳で病死 |
| 豊臣秀勝(小吉) | 三好吉房と、とも(秀吉の姉) | 天正13年(1585)、於次秀勝の死後 | 岐阜城主。お江の夫。文禄元年(1592)、朝鮮出兵の陣中で病死 |
| 豊臣秀次 | 三好吉房と、とも(秀吉の姉) | 天正19年(1591)、関白を継ぐ | 文禄4年(1595)、高野山で切腹 |
| 結城秀康(於義伊) | 徳川家康(次男) | 天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いのあと | 天正18年(1590)に結城家の養子へ。のち越前北ノ庄(福井)68万石 |
| 宇喜多秀家 | 宇喜多直家 | 天正10年(1582)ごろ、父の死後(猶子) | 豪姫を妻に迎え、五大老に。関ヶ原のあと八丈島へ流される |
| 小早川秀秋 | 木下家定(寧々の兄) | 幼いころ | 文禄3年(1594)、小早川隆景の養子へ。関ヶ原で東軍につく |
| 豪姫 | 前田利家(四女) | 幼いころ(養女) | 宇喜多秀家の妻。秀家が流されたあとは金沢へ |
| 八条宮智仁親王 | 誠仁親王(正親町天皇の孫) | 天正16年(1588)(猶子) | 鶴松が生まれて縁組は解かれ、八条宮家をたてる |
このほか、秀吉の弟・豊臣秀長は、姉ともの三男・豊臣秀保を養子にして大和郡山の家を継がせています。

秀吉はなぜ、こんなに多くの養子を迎えたのか
理由の一つは、秀吉に身内が少なかったことです。百姓の出身だった秀吉には、代々仕える一族や家臣がいませんでした。身内といえば、弟の秀長、姉のとも、妹のあさひ、そして妻・寧々の実家である木下家くらいです。そのため、姉や妻の兄の子どもたちを養子にして、豊臣家の一門として育てる必要がありました。身内の少なさについては、姉妹サイトの秀吉はなぜ44歳の妹・旭姫を嫁に出すしかなかったのか(日本の歴史ガイド)でもくわしく解説しています。
もう一つの理由は、養子縁組が大名どうしの結びつきを示す方法だったことです。秀吉の養子は、ねらいによって大きく三つに分けられます。
| タイプ | おもな人物 | ねらい |
|---|---|---|
| 主家とのつながり | 於次秀勝 | 主君・信長の子を跡継ぎにすることで、織田家との結びつきを示す |
| 一門を増やす | 秀勝(小吉)・秀次・秀秋・豪姫 | 身内の少ない豊臣家の一門として育て、重要な城や国を任せる |
| 大名・朝廷との結びつき | 結城秀康・宇喜多秀家・八条宮智仁親王 | 同盟相手からの人質、味方の大名の取りこみ、朝廷とのつながり |
家康の子・於義伊はなぜ秀吉の養子になったのか
天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いで秀吉と家康は戦い、その年の暮れに和睦しました。このとき家康は、次男の於義伊を秀吉のもとへ送り、於義伊は秀吉の養子となって羽柴秀康と名のります。「養子」とはいっても、実際には和睦のしるしとしての人質の意味あいが強いものでした。


『豊臣兄弟!』第40回では、家康があさひとの縁組を受け入れる理由として、この於義伊との「交換」という形が描かれました。豊臣家からは妹のあさひが徳川へ、徳川家からは息子の於義伊が豊臣へ。両家は、身内を差し出しあうことで結びついていったのです。くわしくは第40回「あさひの輿入れ」あらすじと答え合わせもどうぞ。
秀康はその後、天正18年(1590)に関東の名門・結城家へ養子に出されます。家康の次男でありながら、徳川家を継いだのは弟の秀忠でした。
鶴松・秀頼の誕生で、養子たちの運命が変わった
天正17年(1589)、秀吉と茶々のあいだに鶴松が生まれると、養子たちの立場は大きく変わりはじめます。皇族の智仁親王との縁組はすぐに解かれ、翌年には秀康が結城家へ出されました。
鶴松は天正19年(1591)にわずか3歳で亡くなり、秀吉は甥の秀次に関白をゆずります。ところが文禄2年(1593)に秀頼が生まれると、今度は秀次が追いつめられ、文禄4年(1595)に切腹させられました。秀秋も文禄3年(1594)に小早川家へ養子に出されています。秀次と秀長については秀長はなぜ「秀次に殿下の器はない」と言ったのかもあわせてどうぞ。

【考察】養子たちは、関ヶ原でどちらについたのか
ここからは筆者の考えです。秀吉の養子だった人物の多くは、秀吉の死後、関ヶ原の戦いでそれぞれの道を選びました。宇喜多秀家は西軍の主力として最後まで戦い、結城秀康は東軍として関東で上杉家をおさえ、小早川秀秋は戦いのさなかに東軍へつきました。

秀吉の手元に残された秀家が豊臣家に殉じ、外へ出された秀康や秀秋が徳川方についたのは、偶然ではないように思えます。実子の誕生によって居場所を失った養子たちの思いが、秀吉の死後に表に出たのかもしれません。たくさんの養子で一門を広げようとした秀吉の工夫は、実子が生まれたことで、かえって豊臣家を支える人を減らすことにもなったのです。
まとめ
秀吉は、信長の子・家康の子・姉の子・妻の甥・大名の子・皇族まで、さまざまな子を養子や猶子に迎えました。身内の少ない豊臣家を支え、大名や朝廷との結びつきを示すためです。しかし、鶴松と秀頼が生まれると、秀次は切腹し、秀康や秀秋はほかの家へ出されていきました。第40回で描かれた於義伊とあさひの「交換」も、こうした豊臣家の縁組の一つだったのです。

































