大河『豊臣兄弟!』の登場人物ガイド ― 誰がどの役?(第40回「あさひの輿入れ」)
織田信長の次男・織田信雄は、天正18年(1590)、豊臣秀吉によって領地をすべて取り上げられました。いわゆる「改易」です。父から受け継いだ尾張を治め、一時は秀吉と天下を争った信雄が、なぜすべてを失ったのか。大河ドラマ『豊臣兄弟!』で山脇辰哉さんが演じる信雄の人生を、信長との関係、秀吉との対立、そして領地の移り変わりからたどります。
天正18年、北条氏を滅ぼした小田原攻めのあと、秀吉は家康を関東へ移し、空いた家康の旧領(三河・遠江・駿河など)へ信雄を移そうとしました。信雄はこれを断り、尾張に残ることを望んだため、秀吉の怒りを買って改易されました。
信長の次男としての前半生
信雄は永禄元年(1558)、信長の次男として生まれました。同じ母から生まれた兄が、のちに織田家を継ぐ信忠です。12歳のころ、信長が伊勢の北畠家を攻めた和睦の条件として、北畠家に養子として送り込まれました。天正4年(1576)には信長の命で北畠一族が討たれ、信雄は伊勢の南半分を治める大名になります。
父との関係でよく知られるのが、天正7年(1579)の伊賀攻めです。信雄は父に断りなく伊賀へ攻め込み、大敗しました。信長は親子の縁を切るとまで書いた厳しい書状を送ったと伝わります。2年後の天正9年には、信長の大軍のもとで伊賀を平定し、汚名を返しました。
本能寺の変のあと、秀吉と組んで弟を討つ
天正10年(1582)の本能寺の変で、父と兄が同時に亡くなります。清須会議では信忠の子・三法師が跡継ぎとされ、信雄は尾張を得て、織田家の一門として最大級の領地を持つことになりました。
このとき信雄は、柴田勝家と結んだ弟の信孝と対立し、秀吉の側につきます。天正11年の賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れると、信孝は尾張で自害に追い込まれました。信雄は、秀吉と組んで弟を討った形になります。
なぜ秀吉と対立したのか
信孝と勝家がいなくなると、秀吉の力は織田家の誰よりも大きくなりました。信雄からすれば秀吉は父の家臣ですが、秀吉は信雄を自分の下に置こうとします。立場の逆転に信雄は反発しました。
天正12年(1584)3月、信雄は秀吉に通じたと疑った自分の家老3人を処刑し、徳川家康と組んで秀吉と戦います。これが小牧・長久手の戦いです。しかし同年11月、信雄は家康に相談せず秀吉と講和し、伊賀と伊勢の一部を手放しました。この単独講和については織田信雄—「無能」と呼ばれる次男の実像でくわしく紹介しています。
講和のあとの信雄は、秀吉に従う大名となりました。家康と秀吉の和睦の仲立ちも務めたとされ、官位は内大臣まで上ります。表向きは秀吉に厚く遇されていました。
天正18年、改易までの経緯
天正18年(1590)、秀吉は北条氏を攻めます。信雄も出陣し、伊豆の韮山城攻めに加わりました。北条氏が降伏すると、秀吉は家康を北条氏の旧領である関東へ移し、空いた家康の旧領へ信雄を移す国替えを命じます。
信雄はこれを受け入れず、尾張に残ることを願い出ました。秀吉は激怒し、信雄の領地をすべて取り上げます。信雄は下野の烏山(いまの栃木県那須烏山市)へ送られ、出家して「常真」と名乗りました。信雄が治めていた尾張は、秀吉の甥・豊臣秀次に与えられています。
なぜ国替えを断ったのか ― 3つの見方
| 見方 | 中身 |
|---|---|
| ① 父祖の地へのこだわり | 尾張は織田家が身を起こした土地。信長の子として、離れることを受け入れられなかったとする見方 |
| ② 移る先への不安 | 三河・遠江・駿河は長く家康が治めた土地で、徳川の家臣や領民の結びつきが強い。新しい主として治めにくいと考えたとする見方 |
| ③ 秀吉の狙い | 秀吉は初めから、旧主家の血を引く大きな大名を取り除くつもりで、国替えはその口実だったとする見方 |
どれか一つに決められる史料はなく、いまも見方が分かれています。ただ、結果として尾張は秀吉の身内の手に渡り、織田家の本拠地は豊臣家のものになりました。
領地の移り変わり ― 一覧表
| 時期 | おもな領地・本拠 | きっかけ |
|---|---|---|
| 永禄12年(1569)〜 | 南伊勢(北畠家の養子として) | 信長の伊勢攻めの和睦 |
| 天正4年(1576)〜 | 南伊勢。のちに松ヶ島城を本拠とする | 北畠一族が討たれ、名実ともに当主に |
| 天正9年(1581)〜 | 伊勢・伊賀 | 伊賀を平定 |
| 天正10年(1582)〜 | 尾張・伊勢・伊賀 | 清須会議で尾張を得る |
| 天正12年(1584)〜 | 尾張・北伊勢。のちに清洲城を本拠とする | 小牧・長久手の講和で伊賀と伊勢の一部を手放す |
| 天正18年(1590) | すべて失う。下野烏山へ | 家康旧領への国替えを断り、改易 |
| のち | 大名ではなくなり、秀吉の話し相手として仕える | 許されて呼び戻される |
| 元和元年(1615)〜 | 大和宇陀・上野小幡で計5万石 | 大坂の陣のあと、家康から大名に取り立てられる |
各時期の石高は史料によって差があり、正確な数字ははっきりしません。流された先の烏山城の跡は、姉妹サイトの烏山城跡:那須氏が築いた五城三郭の山城で紹介しています。
改易のあと ― 大名への返り咲き
信雄はやがて許され、秀吉の話し相手を務める御伽衆として仕えました。秀吉の死後は徳川家康に近づき、大坂の陣の前には大坂城を離れています。元和元年(1615)、家康から大和宇陀と上野小幡で計5万石を与えられ、25年ぶりに大名へ戻りました。寛永7年(1630)、73歳で亡くなっています。
御伽衆とは、天下人のそばに控えて話し相手を務め、昔話や軍学、茶の湯などで主君をもてなした人々のことです。秀吉の御伽衆には、かつての大名や名家の出身者が多く選ばれました。信雄と同じころには、信長の弟で信雄の叔父にあたる織田有楽斎(長益)や、因幡の元大名・山名禅高(豊国)がいたことで知られます。なお、信長に背いた荒木村重も「道薫」と名乗って秀吉の御伽衆になりましたが、天正14年(1586)に亡くなっており、信雄と同じ時期に仕えてはいません。
子孫は出羽天童藩と丹波柏原藩の大名として明治維新まで続きました。信長の子のなかで、大名家を最後まで残したのは信雄の家です。
まとめ
信雄が改易されたのは、秀吉の国替えを断ったためです。その背景には、父の家臣だった秀吉に従う立場へ変わっていったことへの反発、そして織田家の本拠・尾張を守りたいという思いがありました。一度はすべてを失いながら、最後に大名として家を残した信雄の人生は、「凡庸」の一言では片づけられません。人物の基本データは織田信雄の人物ページにまとめています。
























