飯富虎昌 | 赤備えをはじめた武田家の宿老。義信の守役として謀反の責任を問われ切腹した

飯富虎昌のイラスト(イメージ)

おぶ とらまさ

地域甲信越(甲斐)
所属勢力・属性武田氏(宿老)
大名家飯富家
家紋不詳
主武器槍
衣装・甲冑赤備えの具足
武将タイプ猛将

飯富虎昌(おぶ とらまさ)は、武田信虎・信玄に仕えた宿老である。生まれた年はわかっておらず、永禄8年(1565年)に切腹した。武具を赤一色でそろえた「赤備え」の部隊をはじめた武将とされ、のちに弟(甥とも)の山県昌景がこれを受け継いだ。信玄の嫡男・武田義信の守役だったが、義信の謀反の計画に加わったとして処刑された。

3行でわかる飯富虎昌
  • 信虎・信玄に仕えた宿老で、赤備えの部隊をひきいた
  • 信玄の嫡男・武田義信の守役をつとめた
  • 義信事件の首謀者とされて切腹し、赤備えは山県昌景が受け継いだ
目次

赤備えの猛将

虎昌は武田家の譜代の家臣で、信虎の代から仕えた。信玄の信濃攻めで多くの手柄を立て、内山城(長野県佐久市)の城代などをつとめた。

虎昌の部隊は、具足や旗などを赤一色にそろえた「赤備え」で知られ、戦場で目立つその姿は武勇の象徴とされた。

義信事件

虎昌は信玄の嫡男・武田義信の守役(教育係)だった。永禄8年(1565年)、義信を担いで信玄に背こうとする計画が発覚し、虎昌はその首謀者として切腹を命じられた。

この企てを信玄に知らせたのは、弟(甥とも)の飯富源四郎(のちの山県昌景)だったともいわれる。源四郎は山県家の名跡を継ぎ、赤備えを受け継いで武田軍の先鋒となった。

飯富虎昌をめぐる人物

  • 主君:武田信虎/武田信玄
  • 弟(甥とも):山県昌景
  • 守役として仕えた人物:武田義信

ゆかりの地

  • 内山城跡(長野県佐久市):虎昌が城代をつとめた城
  • 躑躅ヶ崎館跡(武田神社)(山梨県甲府市):武田家の本拠
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