本多忠朝 | 本多忠勝の次男で大多喜藩主。スペイン船の遭難者を救い、大坂夏の陣で討死した「酒封じの神」

本多忠朝のイラスト(イメージ)

ほんだ ただとも

地域関東(上総・大多喜)
所属勢力・属性徳川氏(大多喜藩主)
大名家本多家
家紋立ち葵
主武器槍
衣装・甲冑具足・陣羽織
武将タイプ名将の子

本多忠朝(ほんだ ただとも)は、徳川家の猛将・本多忠勝の次男で、上総の大多喜藩主となった大名である。天正10年(1582年)に生まれ、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で討死した。大多喜藩主のとき、上総の海岸で遭難したスペイン船の乗組員を助けたことで知られる。

3行でわかる本多忠朝
  • 本多忠勝の次男で、父のあとを受けて上総大多喜藩主となった
  • スペイン船サン・フランシスコ号の遭難者を助け、日本とメキシコの交流のきっかけをつくった
  • 大坂冬の陣で酒の失敗をとがめられ、夏の陣で奮戦して討死した
目次

大多喜藩主

忠朝は本多忠勝の次男として生まれ、関ヶ原の戦いにも父とともに出陣した。父の忠勝が伊勢桑名に移ると、上総の大多喜城(千葉県夷隅郡大多喜町)を継いで大多喜藩主となった。

スペイン船の救助

慶長14年(1609年)、フィリピンからメキシコへ向かっていたスペイン船サン・フランシスコ号が、上総の岩和田(千葉県御宿町)の沖で座礁した。忠朝は村人とともに乗組員約300人を助け、手厚くもてなした。

乗っていた前のフィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロは、家康にも会い、のちに日本とメキシコ(当時のスペイン領)の交流のきっかけとなった。御宿町には、この出来事を記念する碑が建っている。

大坂の陣と「酒封じの神」

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣で、忠朝は酒に酔っていたために失敗をしたと家康にとがめられたと伝わる。慶長20年(1615年)の夏の陣では、名誉を取り戻そうと天王寺口で先頭に立って戦い、毛利勝永の軍との激しい戦いで討死した。

死にぎわに「酒のために身を誤る者を救いたい」と言い残したと伝わり、大阪の一心寺にある忠朝の墓は「酒封じの神」として、今も禁酒を願う人々がおとずれる。

本多忠朝をめぐる人物

  • 父:本多忠勝
  • 兄:本多忠政
  • 姉:小松姫(真田信之の妻)
  • 主君:徳川家康/徳川秀忠
  • 夏の陣で戦った相手:毛利勝永

ゆかりの地

  • 大多喜城(千葉県夷隅郡大多喜町):忠朝が藩主をつとめた城。千葉県立中央博物館大多喜城分館
  • 日西墨三国交通発祥記念之碑(千葉県夷隅郡御宿町):スペイン船救助を記念する碑
  • 一心寺(大阪市天王寺区):「酒封じの神」として知られる忠朝の墓がある
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