内藤昌豊(昌秀) | 武田四天王。手柄を立てて当然とされ感状をもらわなかった「副将」の鑑

内藤昌豊のイラスト(イメージ)

ないとう まさとよ

地域甲信越(甲斐)・関東(上野)
所属勢力・属性武田氏(重臣・武田四天王)
大名家武田家(内藤氏)
家紋不詳
主武器槍
衣装・甲冑具足・陣羽織
武将タイプ名副将

内藤昌豊(ないとう まさとよ)は、武田信玄・勝頼に仕えた重臣で、武田四天王のひとりである。近年の研究では昌秀という名だったとされる。大永2年(1522年)ごろに生まれ、天正3年(1575年)の長篠の戦いで討死した。上野の箕輪城代として関東の守りを任され、「副将」として信玄から信頼された。

3行でわかる内藤昌豊
  • 工藤家の出身で、のちに内藤家の名を継いだ
  • 上野の箕輪城代として、北条・上杉に対する武田家の守りを固めた
  • 長篠の戦いで討死した
目次

工藤から内藤へ

昌豊は工藤虎豊の子として生まれた。父が信虎に処罰されたため、一時は甲斐を離れたが、信玄が当主になると呼び戻されて仕えた。のちに名門・内藤家の名を継いだ。

感状をもらわなかった武将

昌豊は戦場で多くの手柄を立てたが、信玄から手柄を認める感状を一度ももらわなかったという話が伝わる。信玄は「昌豊ほどの者が手柄を立てるのは当たり前」と言い、昌豊自身も「大将の采配に従って働いただけ」と気にしなかったという。

派手さはないが、どの役目も確実にこなす昌豊は、軍全体を支える「副将」の鑑とされた。

箕輪城代と長篠

永禄9年(1566年)、信玄は上野の長野家の箕輪城を落とし、のちに昌豊を城代とした。昌豊は上野の武田領を治め、北条家や上杉家に備えた。

天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、武田軍の中央をひきいて織田・徳川軍に突撃し、討死した。

内藤昌豊をめぐる人物

  • 主君:武田信玄/武田勝頼
  • 武田四天王:山県昌景/馬場信春/高坂昌信
  • 守った城:箕輪城(上野)

ゆかりの地

  • 箕輪城跡(群馬県高崎市):昌豊が城代をつとめた城
  • 長篠・設楽原古戦場(愛知県新城市):昌豊が討死した戦場
  • URLをコピーしました!

ほかの武将も見る

目次