石川数正と酒井忠次を比較|徳川の「両家老」の違いと、出奔した数正・残った忠次のその後【ゆかりの城マップつき】

大河『豊臣兄弟!』第39回では、徳川家康の重臣・石川数正が家康のもとを去り、秀吉に仕える「出奔」が描かれる予定です。数正は、もう一人の重臣・酒井忠次と並んで、徳川家の「両家老」と呼ばれた人物でした。

この記事では、数正の出奔の理由そのものではなく、数正と忠次の二人を並べて比べることで、この事件を見ていきます。徳川家を支えた二人の家老は、どこが同じで、どこが違ったのか。そして、出奔した数正と残った忠次は、その後どんな道を歩んだのでしょうか。ゆかりの城マップと比較表で整理します。

この記事のポイント

  • 数正は西三河、忠次は東三河の家臣団をまとめる「旗頭」。二人で徳川家の両輪だった
  • 数正は外交・交渉、忠次は戦場の指揮で力を発揮した
  • 天正13年(1585)、数正は秀吉のもとへ去り、忠次は徳川に残った
  • 数正はのちに松本城の城主となり、今に残る天守を築いた。一方、石川家は子の代で改易、酒井家は庄内藩として幕末まで続いた
岡崎城を背に向かい合う石川数正と酒井忠次のイラスト
徳川の両家老・石川数正と酒井忠次(イメージ)
目次

石川数正と酒井忠次を比較 — 早見表


石川数正

酒井忠次
生没年生年不詳(1533年ごろとも)〜文禄元年(1592)または文禄2年(1593)大永7年(1527)〜慶長元年(1596)
家康との関係家康の人質時代から仕えた側近家康の叔母(碓井姫)の夫。家康より16歳年上
担当西三河の旗頭。岡崎城を預かる東三河の旗頭。吉田城(愛知県豊橋市)を預かる
得意なこと外交・交渉。今川家・織田家・秀吉との取次戦場の指揮。長篠の戦いの鳶ヶ巣山砦の奇襲
天正13年(1585)家康のもとを去り、秀吉に仕える徳川に残る
その後秀吉から河内に領地を与えられ、のち信濃松本の城主に天正16年(1588)に隠居し、京都で暮らす
家のゆくえ子の康長が松本城主を継ぐが、慶長18年(1613)に改易子孫は出羽庄内藩主として幕末まで続く

※生没年や石高には諸説があります。

二人そろって「両家老」 — 西三河と東三河の旗頭

家康は三河を治めるにあたり、家臣団を西三河と東三河の二つのグループに分け、それぞれに「旗頭」と呼ばれるまとめ役を置きました。東三河の旗頭が酒井忠次、西三河の旗頭が石川家成(数正の叔父)で、家成が遠江の掛川城に移ったあと、その役目を数正が引き継いだとされます。

西三河の中心は、家康が生まれた岡崎城です。家康が浜松城に移ってからは、数正は岡崎城主となった信康を支え、信康の死後は城代として岡崎城を預かりました。家康の地元を任されたということは、それだけ信頼が厚かったということです。こうして忠次と数正は、三河を東西で分け持つ徳川家の両輪となりました。

得意分野の違い — 交渉の数正、戦場の忠次

石川数正 — 外交のプロ

数正は、家康が今川家の人質だった少年時代から付き従った側近です。桶狭間の戦いのあと、今川家のもとに残された家康の妻子(築山殿と信康)を取り戻す交渉にあたったと伝わり、織田信長との同盟でも取次を務めました。小牧・長久手の戦いのあと、秀吉との和睦の交渉の窓口になったのも数正です。

酒井忠次 — 徳川四天王の筆頭

忠次は、本多忠勝・榊原康政・井伊直政とともに徳川四天王に数えられ、その筆頭とされる武将です。天正3年(1575)の長篠の戦いでは、別動隊を率いて武田方の鳶ヶ巣山砦を奇襲し、勝利のきっかけをつくりました。宴の席で「えびすくい」という踊りを披露した、という愛嬌のある逸話も残っています。

交渉の席に立つ数正と、戦場に立つ忠次。役割がはっきり分かれていたからこそ、二人は両家老として並び立つことができたのでしょう。

天正13年の分かれ道 — 去った数正、残った忠次

天正13年(1585)11月、数正は家族や家臣を連れて岡崎城を出て、秀吉のもとへ向かいました。徳川家の内情をよく知る家老の出奔は、家中に大きな衝撃を与えます。家康は、数正に軍の仕組みを知られているとして、軍制を武田流に改めたと伝わります。

なぜ数正は去ったのか。秀吉からの誘い、秀吉との交渉役だったために家中で「豊臣寄り」と見られて孤立したこと、あるいは徳川家を守るための考えがあったことなど、さまざまな説があり、はっきりした答えはわかっていません。第39回でこの場面がどう描かれるかは、第39回のあらすじと展開予想で取り上げています。

一方の忠次は、徳川家に残りました。翌天正14年(1586)、家康は上洛して秀吉に臣従します。忠次はこのころ家康とともに上洛し、秀吉から重く扱われたとも伝わります。もう一人の家老が去ったあとの徳川家を、忠次は最後まで支え続けたのです。

ゆかりの城マップ — 岡崎から松本へ、吉田から京都へ

石川数正と酒井忠次のゆかりの城の地図。数正は岡崎城から大坂、河内、松本城へ。忠次は吉田城から京都へ
石川数正と酒井忠次のゆかりの城(線は移った順を示すイメージ)
  • 岡崎城(愛知県岡崎市):数正が西三河の旗頭として預かった城。ここから出奔した
  • 河内(大阪府):秀吉から数正に与えられた新しい領地。8万石とされる
  • 松本城(長野県松本市):天正18年(1590)、小田原征伐のあとに数正が城主となった城
  • 吉田城(愛知県豊橋市):忠次が東三河の旗頭として預かった城
  • 京都:隠居した忠次が晩年を過ごし、亡くなった地

松本城の天守を建てたのは数正親子

数正の出奔の「その後」で、いちばん身近に感じられるのが松本城です。天正18年(1590)、小田原征伐で北条氏が滅び、家康が関東へ移ると、秀吉は信濃の松本(深志)に数正を置きました。家康の新しい領国のすぐ隣に、もと徳川の家老を配置したことになります。

数正と、その跡を継いだ子の康長は、城の大改修に取り組み、今に残る天守を築いたとされます。国宝・松本城の黒い天守は、徳川を去った家老の一族が建てたものとされているのです。数正は文禄元年(1592)または文禄2年(1593)に亡くなりました。

石川家と酒井家、それぞれの結末

二人の家老の家は、まったく違う結末を迎えます。

  • 石川家:数正の子・康長は関ヶ原の戦いで東軍につき、松本藩主を続けました。しかし慶長18年(1613)、大久保長安事件に連座して改易され、石川家は大名の地位を失います。
  • 酒井家:忠次の子・家次が跡を継ぎ、孫の忠勝の代に出羽庄内藩(山形県鶴岡市)の藩主となって、明治維新まで続きました。

徳川を離れた家と、徳川に残った家。江戸幕府の世になってからの明暗は、天正13年の選択の重さを感じさせます。

徳川家臣団の中の二人

人物立場ひとこと
酒井忠次東三河の旗頭・徳川四天王筆頭長篠の戦いで鳶ヶ巣山砦を奇襲
石川数正西三河の旗頭・岡崎城代天正13年に秀吉のもとへ
石川家成数正の叔父。西三河の旗頭の前任のち掛川城主
本多忠勝徳川四天王生涯無傷の猛将
榊原康政徳川四天王小牧・長久手で秀吉を挑発する檄文を書いたと伝わる
井伊直政徳川四天王武田の旧臣を率いた「井伊の赤備え」で知られる

よくある質問

Q. 石川数正と酒井忠次はどちらが上?

A. 二人は西三河と東三河の旗頭として並ぶ「両家老」でした。年齢や家康との縁戚関係から、忠次を筆頭とみることが多いです。

Q. 数正が出奔したあと、忠次はどうした?

A. 徳川家に残り、家康の上洛にも従ったと伝わります。天正16年(1588)に隠居して家督を子の家次に譲り、京都で晩年を過ごしました。

Q. 松本城を建てたのは誰?

A. 今に残る天守は、石川数正と子の康長の父子が、文禄年間(1590年代)に築いたと考えられています。

まとめ

石川数正と酒井忠次は、西三河と東三河を分け持ち、交渉と戦場でそれぞれ力を発揮した、徳川家の「両家老」でした。天正13年、数正は秀吉のもとへ去り、忠次は徳川に残ります。数正は松本城に今も残る天守を築き、忠次の子孫は庄内藩として幕末まで家を残しました。大河で数正が岡崎を去る場面を見るときは、残されたもう一人の家老・忠次の姿にも注目してみてください。

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