豊臣秀吉と徳川家康|二人のライバルはなぜ全面決戦を避けたのか ― 小牧・長久手から臣従、天下人交代まで【関係図つき】

大坂城を背に対峙する豊臣秀吉と徳川家康

戦国乱世の最終盤、天下をめぐって二人の巨人が向き合った。一代で農民から天下人へと駆け上がった豊臣秀吉と、三河の小大名から出発し、最後には二百六十年の泰平を築いた徳川家康である。この二人は、時に刃を交え、時に手を結び、互いを意識し続けた生涯の好敵手であった。興味深いのは、両者が一度も「全面決戦」で雌雄を決していないことだ。なぜ二人は総力戦を避けたのか。そして、軍略では引けを取らなかった家康が、なぜいったんは秀吉に頭を下げ、最後に天下を手にしたのか。本記事では、合戦の勝ち負けそのものではなく、秀吉と家康という二人の「関係」に光を当て、その駆け引きの妙をたどっていく。

秀吉 と 家康 ― ライバル関係図
天下をめぐる二人の駆け引きと、その決着
1582
本能寺の変 ― 秀吉は中国大返し、家康は伊賀越えで生還
秀吉○
1584
小牧・長久手の戦い ― 局地戦で家康が勝利
家康○
1586
家康、大坂城で秀吉に臣従 ― 秀吉の外交勝利
秀吉○
1590
家康、関東250万石へ移封 ― 実力を蓄える
家康
1598
秀吉の死 ― 幼い秀頼が遺される
1600
関ヶ原の戦い ― 家康が勝利
家康○
1603
家康、江戸幕府を開く ― 天下人の交代
家康○
合戦の詳しい経過は各解説記事へ。ここでは二人の「関係」に注目します。
目次

信長のもとの二人 ― 並び立つ好敵手

秀吉と家康が頭角を現したのは、いずれも織田信長の勢力下においてであった。家康は三河の大名として信長と対等の同盟を結ぶ盟友であり、秀吉は信長に仕える一家臣から、その才覚によって異例の出世を遂げていった。立場は違えど、二人はともに信長という巨星のもとで力を磨いた。片や東の守りを固める律義な同盟者、片や誰よりも早く手柄を挙げようとする野心の人。この頃から、二人の対照的な個性はすでにはっきりと表れていた。信長が健在なうちは直接ぶつかることのなかった両者だが、その均衡は、ある一日の事件によって砕け散る。

本能寺の変 ― 明暗を分けた生還劇

天正十年(一五八二年)六月、本能寺の変で信長が斃れると、秀吉と家康はそれぞれに人生最大の岐路に立たされた。ここで二人の資質の差が、鮮やかに浮かび上がる。中国地方で毛利氏と対陣していた秀吉は、主君の死をむしろ好機と見て、電光石火で和睦をまとめ、「中国大返し」の強行軍で京へとって返し、山崎で明智光秀を討ち果たした。危機を一瞬で天下取りの跳躍台に変えたのである。一方、わずかな供回りで堺にいた家康は、ただ生き延びることに徹し、決死の「伊賀越え」で本国へ帰り着いた。同じ非常事態を、秀吉は「攻め」で、家康は「守り」で乗り切った。この対比こそ、その後の二人の関係を貫く縮図であった。

小牧・長久手の戦い ― 家康が唯一勝った相手

急速に天下人へと駆け上がる秀吉に、真っ向から立ちはだかったのが家康であった。天正十二年(一五八四年)、両者は小牧・長久手の戦いで激突する。注目すべきは、この一戦の意味である。生涯ほとんど負け知らずだった秀吉にとって、家康は「軍事的にしてやられた、ほぼ唯一の相手」であった。家康は長久手で秀吉方の別働隊を巧みに撃破し、正面からの戦では引けを取らないことを天下に示したのだ。数で圧倒する秀吉が、力ずくでは家康を屈服させられない――この事実こそが、以後の二人の関係を決定づける。秀吉は悟ったのである。この男は、力では従わない、と。

戦わずして勝つ ― 秀吉、母と妹を差し出す

ここからの秀吉の動きに、彼の真骨頂がある。武で敵わぬと見るや、秀吉は刃を収め、人心掌握という得意の土俵に持ち込んだ。まず家康と結んでいた織田信雄を巧みに単独講和させ、家康から戦う名分を奪う。そのうえで秀吉は、常識では考えられない一手を打った。自らの妹・旭姫を家康の正室に嫁がせ、さらに実の母・大政所までも人質として家康のもとへ送り込んだのである。天下人が、肉親を差し出してまで相手に頭を下げる――この破格の低姿勢は、単なる弱腰ではない。「ここまでされて上洛せねば、家康の器量が疑われる」という空気を天下につくり出す、計算し尽くされた「人たらし」の芸であった。誇り高い家康も、これにはついに折れ、大坂城へ上って臣従の礼をとる。秀吉は、刀ではなく人情の演出によって、最強の好敵手を屈服させたのだ。

臣従する家康 ― 牙を隠して時を待つ

臣従後の家康の身の処し方も、実にこの男らしい。天正十八年(一五九〇年)、秀吉は小田原征伐ののち、家康に先祖以来の東海の領国を捨てさせ、関東二百五十万石への国替えを命じた。体よく本拠から引き離す措置であったが、家康はこれに不満を漏らすどころか、むしろ喜んで受け入れたようにふるまい、広大な関東でひたすら実力を蓄えていく。豊臣政権の五大老筆頭という高位にありながら、決して前に出すぎない。逆らわず、しかし決して牙を抜かれもしない。この「従いながら待つ」という絶妙の距離感こそ、秀吉に臣従しつつも天下への望みを一度も手放さなかった、家康の恐ろしさであった。

秀吉の死、そして関ヶ原へ

慶長三年(一五九八年)、天下人・秀吉が世を去る。遺されたのは、わずか六歳の幼い豊臣秀頼であった。この瞬間、家康を長年抑えつけてきた重石が、消えた。忍耐の人・家康の待ち続けた「その時」が、ついに訪れたのである。家康はゆっくりと、しかし確実に天下取りへと動き出し、慶長五年(一六〇〇年)、石田三成ら豊臣方の奉行衆を関ヶ原で打ち破った。かつて秀吉に頭を下げた男が、秀吉の死からわずか二年で、その豊臣家をしのぐ存在となる。そして慶長八年(一六〇三年)、家康は征夷大将軍となり江戸幕府を開いた。長きにわたる二人の関係は、「待った者の勝ち」という、いかにも家康らしい形で決着したのである。

人たらしと忍耐 ― 「鳴くまで待とう」の意味

秀吉と家康の関係を一言で言い表すなら、それは「爆発する才能」と「静かに待つ意志」のせめぎ合いであった。有名なホトトギスの句が、二人の本質を見事に射抜いている。「鳴かせてみせよう」と、あらゆる手を尽くして相手を動かした秀吉。「鳴くまで待とう」と、ただ好機の熟すのを待った家康。興味深いのは、一代で天下をつかんだ秀吉の輝きがその死とともに急速に色あせ、対する家康の築いた世が二百六十年も続いたことだ。天下を「取りにいった」男と、天下が「転がり込む」のを待った男――どちらが上ということではない。ただ、時代が戦乱から泰平へと大きく舵を切るとき、最後に求められたのは、秀吉の華やかな才覚よりも、家康の底知れぬ忍耐であった。二人の関係を見つめることは、その時代の転換そのものを見つめることにほかならない。

合戦そのものの詳しい経過は、姉妹サイト「日本の歴史ガイド」でも解説しています。

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