さなだ のぶつな
| 地域 | 信濃・上野 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 武田家 |
| 大名家 | 真田家 |
| 家紋 | 六文銭(六連銭) |
| 主武器 | 大太刀 |
| 衣装・甲冑 | 黒糸威の具足 |
| 武将タイプ | 猛将 |
真田信綱は、真田幸隆の長男で、武田信玄・勝頼に仕えた武将です。父の跡を継いで真田家の当主となりましたが、天正3年(1575年)の長篠の戦いで弟の昌輝とともに討ち死にしました。そのため、家督は三男の昌幸が継ぐことになりました。
幸隆の長男として
信綱は、天文6年(1537年)に生まれたとされます。父・幸隆が武田家に仕えるようになると、信綱も若いころから武田家の家臣として戦に加わりました。
武田家の先方衆として
真田家は、信濃の国衆を率いる先方衆として、武田家の戦の最前線に立つことが多い家でした。信綱も父とともに信濃や上野での戦いに加わり、のちには一隊を率いる立場となりました。
真田家の当主となる
父の幸隆が出家すると、信綱が真田家の当主となりました。天正2年(1574年)に幸隆が亡くなり、信綱は名実ともに真田家を率いることになります。武田家では、信玄が前年に亡くなり、勝頼の時代に入っていました。
長篠の戦いでの最期
天正3年(1575年)、武田勝頼は三河の長篠城を囲み、織田信長・徳川家康の連合軍と設楽原で戦いました。信綱は弟の昌輝とともにこの戦いに加わり、敵の陣に向かって攻めかかりましたが、討ち死にしました。39歳だったとされます。
この戦いで、武田家は山県昌景・馬場信春・内藤昌豊ら多くの重臣を失いました。
大太刀の伝え
信綱は大きな太刀をふるって戦ったと伝わります。信綱が使ったとされる大太刀は、のちに信綱をまつる寺に伝えられました。
信綱寺
信綱の首は、家臣が戦場から持ち帰ったと伝わります。のちに菩提寺として信綱寺(長野県上田市真田町)が建てられ、信綱と昌輝の墓があります。
武田家と信濃の国衆
武田家は、信濃を手に入れる中で、土地の国衆を家臣に組み込んでいきました。国衆たちは自分の領地を持ちながら、武田家の戦に兵を率いて加わりました。真田家もその一つで、信濃と上野の境に近い土地を治めていたため、上野方面の戦いでも重要な役目を担いました。
弟たち
信綱には、昌輝・昌幸・信尹という弟がいました。三男の昌幸は武田家の名門・武藤家を継いでいて、信綱が当主のころは真田家の外にいました。兄弟はそれぞれの立場で武田家を支えていました。
六文銭の旗
真田家の旗印として知られる六文銭は、信綱の代にも用いられたと伝わります。長篠の戦場でも、真田の兵はこの旗のもとで戦ったと考えられています。
評価
信綱は、真田家の当主として武田家の戦を支えた勇将です。長篠で兄弟がともに倒れたことで、三男の昌幸が家を継ぎ、のちの上田城の戦いへとつながる真田家の歴史が始まりました。
ゆかりの地
- 信綱寺(長野県上田市真田町):信綱の菩提寺。信綱と弟・昌輝の墓がある
- 設楽原古戦場(愛知県新城市):信綱が討ち死にした長篠の戦いの戦場
- 真田氏本城跡(長野県上田市真田町):真田氏の本拠とされる山城の跡
このイラストについて
このイラストは、長篠の戦場で大太刀を構える信綱を描いています。
黒糸威の具足と兜に身を包み、大きな太刀をふるったという伝えをもとに、勇将の姿を表しました。
背後の柵と煙は、設楽原に築かれた織田・徳川軍の馬防柵をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
参考にした資料
信濃の小県郡を本拠とした国衆。真田幸綱(幸隆)が武田信玄に仕えて信濃攻略で活躍し、子の昌幸は武田家滅亡後、織田・北条・徳川・上杉の間を渡り歩いて家を守った。
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