いけだ もとすけ
| 地域 | 東海・近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 池田氏 |
| 大名家 | 池田氏 |
| 家紋 | 丸に揚羽蝶 |
| 主武器 | 太刀・大槍 |
| 衣装・甲冑 | 赤塗具足 |
| 武将タイプ | 勇猛・悲壮 |
池田恒興の長男。父とともに小牧・長久手の戦いに参戦し、森長可らとともに三河中入作戦を率いるも討死。
池田恒興の長男
元助は、織田信長の乳兄弟として知られる池田恒興の長男です。弟には、のちに姫路城を築く池田輝政がいます。
織田家に仕える
元助は父とともに織田家に仕え、若い頃から戦いに加わりました。
荒木村重との戦い
1578年に荒木村重が信長に背くと、池田家は村重の討伐に加わりました。元助もこの戦いで活躍したとされます。
本能寺の変の後
1582年の本能寺の変の後、父の恒興は清洲会議に出席する宿老の一人となりました。池田家は羽柴秀吉に味方する道を選びます。
美濃の城主
元助は美濃の岐阜城を任されたとされます。池田家は美濃に大きな勢力を持つようになりました。
小牧・長久手の戦い
1584年、秀吉と徳川家康・織田信雄の間で小牧・長久手の戦いが起こりました。元助は父とともに秀吉方として出陣しました。
三河中入り
池田恒興・元助父子は、森長可らとともに、家康の本拠三河を突く作戦に加わりました。この作戦は「三河中入り」と呼ばれます。
長久手での戦い
しかし作戦は家康に察知され、池田勢は長久手で徳川軍の攻撃を受けました。
討死
この戦いで、元助は父の恒興とともに討死しました。義兄弟の森長可も同じ戦いで命を落としています。
弟輝政が家督へ
父と兄を失ったことで、池田家の家督は弟の輝政が継ぐことになりました。輝政はのちに姫路52万石の大名となります。
元助の子
元助の子の由之は、のちに池田家の家臣として仕えました。
長久手古戦場
長久手の古戦場は愛知県長久手市にあり、池田恒興・元助父子が討たれた場所とされる「勝入塚」「庄九郎塚」が残っています。
若き跡継ぎの死
元助は池田家の跡継ぎとして期待されていましたが、父とともに戦場で命を落としました。
父池田恒興
元助の父の恒興は、織田信長の乳兄弟で、信長の重臣として活躍した武将でした。
中入り作戦
小牧・長久手の戦いで、池田恒興・森長可らは、家康の本拠の三河を突く「中入り」の作戦を進めましたが、家康に見破られて大敗しました。
弟池田輝政
元助の死の後、弟の輝政が池田家を継ぎ、のちに姫路城を大改修して「西国将軍」と呼ばれるほどの大名となりました。
元助の評価
元助は、池田家の嫡男として父とともに戦い、長久手で散った武将です。その死によって、弟の輝政が池田家を大きく発展させることになりました。
このイラストについて
兜をかぶった若い武将が、雨に濡れた戦場と騎馬の軍勢を背にした姿です。
背景の騎馬の軍勢は、元助が父恒興とともに加わった小牧・長久手の戦いの「三河中入り」をイメージしています。厳しい表情は、長久手で父とともに討死した元助の最期の戦いを表したものです。兜の紋や顔立ちは想像によるものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
池田恒興を中心とする家。恒興の母が織田信長の乳母だったことから、恒興は信長の乳兄弟として幼い頃から仕えた。本能寺の変の後、清洲会議に出席した宿老の一人となったが、1584年の小牧・長久手の戦いで子の元助とともに戦死した。
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