ほうじょう うじやす
| 地域 | 関東 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 後北条氏第3代 |
| 大名家 | 北条 |
| 家紋 | 三つ鱗 |
| 主武器 | 太刀・采配 |
| 衣装・甲冑 | 獅子噛具足 |
| 武将タイプ | 名将・河越夜戦 |
北条氏康は、後北条氏2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれた。祖父・北条早雲が一代で築いた伊豆・相模の基盤を受け継ぎ、家督を継いだ直後の1541年、父の死に乗じて反攻してきた関東の諸勢力に対処するという困難な状況からその治世を始めることとなった。
1546年の河越夜戦では、北条綱成が守る河越城を取り囲んだ扇谷上杉氏・山内上杉氏・古河公方連合軍という圧倒的多数の敵に対し、氏康はわずかな手勢を率いて夜襲を敢行し、油断していた大軍を混乱に陥れて壊滅させるという戦国史上屈指の奇襲戦を成功させた。この勝利により関東における北条氏の覇権が確立し、氏康は「相模の獅子」として広くその武名を知られるようになる。
氏康は卓越した内政家でもあり、税制改革として「四公六民」と呼ばれる年貢率の緩和を実施し、検地による領国の把握、伝馬制度の整備など、先進的な統治政策を次々と打ち出した。これにより北条領国は関東随一の安定した経済基盤を築き、小田原城下は当時最大級の繁栄を誇る城下町へと発展した。
晩年には甲斐の武田信玄、駿河の今川義元との間で甲相駿三国同盟を結んで関東の安定を図る一方、上杉謙信の度重なる関東出兵にも小田原城の堅固な守りで対抗し続けた。謙信による小田原包囲すら耐え抜いたことは、北条氏の防衛体制の強固さを天下に示す結果となった。
1571年に57歳で死去する際、跡を継ぐ氏政に対し「今後は上杉との同盟を最優先せよ」との遺言を残したと伝わるが、氏政はこれに反して武田氏との連携を選び、後に豊臣秀吉による小田原征伐を招く遠因となったとも言われる。それでも氏康自身は、祖父・早雲から続く北条氏の最盛期を築き上げた名君として、関東の戦国史に大きな足跡を残した。
氏康の私生活では、正室・瑞渓院との間に氏政をはじめとする多くの子女をもうけ、娘たちは武田信玄・今川氏真ら周辺大名家に嫁いで甲相駿三国同盟を人的にも支えた。合戦においては用兵の巧みさもさることながら、家臣や領民の声に耳を傾ける姿勢を重視し、「小田原評定」という言葉の語源となった合議制を整備するなど、独断専行を避ける統治スタイルを貫いた。
河越夜戦の勝利は、氏康自らが夜襲部隊の先頭に立ち、鎧の合印を白い紙で統一して同士討ちを防ぐなど、綿密な作戦立案のもとに成し遂げられたと伝えられる。この勝利により北条氏は関東随一の勢力へと躍進し、以後の統治政策の充実と相まって、戦国大名の中でも屈指の安定した領国経営を実現した先進的な統治者として、後世高く評価されている。

