たけだ しんげん
| 地域 | 甲信越 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 武田氏 |
| 大名家 | 武田 |
| 家紋 | 武田菱 |
| 主武器 | 軍配・太刀 |
| 衣装・甲冑 | 諏訪法性兜具足 |
| 武将タイプ | 甲斐の虎・軍略 |
武田信玄は、甲斐国(現在の山梨県)の守護大名・武田信虎の嫡男として生まれた。父・信虎の圧政に反発する家臣団の支持を受けて父を追放し、若くして家督を継承。以後、甲斐一国を基盤に信濃侵攻を進め、川中島において宿敵・上杉謙信と5度にわたり激突したことで広く知られる。特に第四次川中島の戦いでは、両軍合わせて数千の死傷者を出す激戦となり、信玄自身も謙信の一騎討ちを受けたという伝説が残る。
軍略家としての信玄は「風林火山」の旗印に象徴されるように、迅速な機動と巧みな用兵で知られ、甲州法度之次第と呼ばれる分国法を制定して領国経営の基盤を固めた。信玄堤と呼ばれる治水事業を行って甲斐の農業生産力を高め、金山開発による財政基盤の強化にも努めるなど、武将としてだけでなく統治者としても卓越した手腕を発揮した。
外交面では今川・北条両氏と甲相駿三国同盟を結んで背後を固めつつ、信濃・駿河方面へと勢力を拡大。晩年には織田信長包囲網の一翼を担い、上洛を目指して西上作戦を開始する。三方ヶ原の戦いでは徳川家康・織田連合軍を打ち破り、家康に生涯忘れられない恐怖を植え付けるほどの圧倒的な武威を示した。
しかし西上作戦の途上、信濃・駒場の陣中において持病が悪化し、1573年に53歳で病没した。死に際して信玄は自らの死を3年間秘匿するよう遺言したと伝えられ、これは後継者・武田勝頼への権力移行を円滑にするための配慮であったとされる。
信玄の死により信長包囲網は瓦解し、織田信長の天下統一事業は大きく前進することとなった。「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」の言葉に見られるように、人材を何よりも重視する統治哲学で知られ、山本勘助や高坂昌信ら「武田二十四将」と呼ばれる有能な家臣団を育て上げた。戦国最強と謳われたその軍団と統治手腕は、後世の武将たちにも大きな影響を与え続けている。
武田信玄の統治は軍事・経済の両面で先進的であった。金山開発によって得た豊富な資金力を背景に、当時最強と謳われた騎馬軍団を編成し、周辺諸国からその軍事力を恐れられた。また父・信虎を追放した経緯から、家臣団との合議を重視する統治スタイルを確立し、有力家臣の意見を積極的に取り入れる柔軟な組織運営を行ったことも、武田家が長期にわたり甲斐・信濃を安定して支配できた要因の一つとされる。
信玄は学問にも深い関心を寄せ、禅僧・快川紹喜に師事して仏教への造詣を深めるとともに、自らの死後を見据えた領国経営の仕組みづくりにも心を砕いた。家督を継いだ勝頼は信玄の遺した軍団と体制を受け継いだものの、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗し、武田家はやがて滅亡する。それでもなお信玄が残した軍学や統治の思想は、後世の武将たちに大きな影響を与え続けている。
信玄の私生活では、正室・三条夫人との間に嫡男・義信をもうけるが、義信は信玄の駿河侵攻方針に反対して謀反を疑われ、幽閉先で自害するという悲劇を経験している。家督は四男の勝頼が継ぐこととなったが、勝頼は正式な後継者としての家格が十分でなかったため、家臣団の統制に苦慮することとなった。信玄自身も多くの側室を持ち、その子女は各地の有力家に嫁ぐなど、婚姻政策を通じた勢力拡大にも余念がなかった。
信玄が制定した甲州法度之次第は当主自身も法の下に置かれるとする画期的な内容を含み、恣意的な支配を排する先進的な統治思想を示していた。信玄堤に代表される治水技術は現代に至るまでその効果を発揮し続けており、山梨県では今なお「信玄公」として篤い敬愛を集めている。戦国最強と謳われた騎馬軍団と卓越した統治哲学は、後世の軍学者たちによって体系化され、江戸期を通じて武士の教養として広く学ばれ続けた。

