織田信秀(三吉侍従) | 信長の六男で、祖父と同じ名をもつ。秀吉に仕えて三吉侍従となり、洗礼名ペトロのキリシタンでもあった

織田信秀(三吉侍従)のイラスト(イメージ)

おだ のぶひで

地域東海(美濃)・近畿(近江)
所属勢力・属性織田家・豊臣家
大名家織田家
家紋織田木瓜
主武器―(采配)
衣装・甲冑具足・陣羽織
武将タイプ天下人の子・キリシタン

織田信秀(おだ のぶひで)は、織田信長の六男である。祖父の織田信秀(信長の父)と同じ名をもつため、区別して通称の「三吉(さんきち)」や、のちの官職から「三吉侍従」と呼ばれる。生まれは元亀年間(1570〜1573)ごろと考えられ、母はわかっていない。本能寺の変のときはまだ少年で、その後は豊臣秀吉に仕えて侍従となった。キリスト教の洗礼を受け、洗礼名をペトロといった。

目次

本能寺の変と秀吉の保護

天正10年(1582)の本能寺の変のとき、信秀はまだ元服前で、大洞(おおほら)と呼ばれていた。変の際は美濃の仏照寺に逃れて難を避けたことが、のちの文書からわかる。その直後、羽柴秀吉は信長が与えていた美濃揖斐郡の所領を信秀に安堵した。清洲会議ののちには近江栗太郡の山田庄も領地とし、天正11年(1583)には元服を終えて「三吉郎信秀」と名のっている。このころは一向宗(浄土真宗)の門徒でもあったらしい。

三吉侍従と洗礼名ペトロ

天正13年(1585)7月、信秀は従四位下・侍従に任じられ、羽柴の名字を許されて「三吉侍従」と呼ばれるようになった。同じころ、宣教師ルイス・フロイスの『日本史』によれば、信長の妹の子でいとこにあたる織田熊之丞とともに大坂の修道院で説教を聞き、そのまま洗礼を受けた。洗礼名はペトロ。受洗に怒った母を逆に説き伏せ、キリスト教を理解してもらったという。天正15年(1587)の九州攻めには、象牙のロザリオを首にかけて大坂城から出陣したと伝わる。この年の6月、秀吉はバテレン追放令を出すことになる。

聚楽第行幸で兄・信雄と並ぶ

天正16年(1588)4月の聚楽第行幸では、信秀は秀吉の牛車の後ろに従った。行幸の際に大名たちが差し出した起請文には「三吉侍従豊臣信秀」と署名しており、豊臣の姓も与えられていたことがわかる。同じ起請文の場には、兄の織田信雄が内大臣として、叔父の織田信包や織田長益も名を連ねていた。天下人の子として生まれた信秀は、秀吉の天下では一人の侍従として仕える立場になっていた。

名護屋在陣と晩年

文禄元年(1592)からの朝鮮出兵では、御後備衆の筆頭として300人を率い、肥前名護屋城の東二の丸に詰めた。兵の数から、このころの石高は1万石前後だったと考えられている。海は渡らなかった。慶長2年(1597)には山田庄にあてた掟書を出しており、少なくともこの年までは領地を治めていたが、その後の消息ははっきりしない。『織田家雑録』は京都で病没したと伝え、没年はわかっていない。死後、領地は没収された。

織田信秀(三吉侍従)をめぐる人物

ゆかりの地

  • 揖斐(岐阜県揖斐郡):秀吉が安堵した美濃の所領
  • 山田(滋賀県草津市):近江栗太郡山田庄。晩年まで治めた所領
  • 名護屋城跡(佐賀県唐津市):朝鮮出兵のとき東二の丸に詰めた城
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