備中高松城の水攻めをわかりやすく解説|秀吉はなぜ城を水に沈めたのか — 12日で築いた堤と清水宗治の最期

水に囲まれた備中高松城のイラスト

天正10年(1582年)の春、織田信長の命で中国地方の毛利家を攻めていた羽柴秀吉は、備中(岡山県)の高松城を囲みました。沼地に守られた堅い城を落とすため、秀吉が選んだのは、城のまわりに長い堤を築き、川の水を引き込んで城ごと水に沈める「水攻め」でした。これが備中高松城の水攻め(びっちゅうたかまつじょうのみずぜめ)です。この戦いの最中に本能寺の変が起き、城主・清水宗治の切腹と引きかえの講和から、秀吉の「中国大返し」が始まります。

備中高松城の水攻めの基本データ
いつ天正10年(1582年)4月〜6月4日。堤の工事は5月8日〜19日ごろ
どこ備中国の高松城(岡山県岡山市北区高松)
誰と誰羽柴秀吉(織田方)・宇喜多勢 対 清水宗治(毛利方)。毛利の援軍として吉川元春・小早川隆景・毛利輝元
兵力秀吉方は宇喜多勢を合わせて約3万。高松城の城兵は数千。毛利の援軍は記録により1万〜8万と大きく違う
結果講和。清水宗治が城兵の命と引きかえに切腹し、城は明け渡された
この後秀吉はすぐに京へ引き返し(中国大返し)、山崎の戦いで明智光秀を破る
目次

備中高松城の水攻めを3行でいうと

  • 沼地に囲まれた高松城を落とすため、秀吉は城のまわりに堤を築いて水攻めにした
  • 水に沈みかけた城を前に、毛利の援軍も手が出せず、講和の話し合いが進んだ
  • 本能寺の変の知らせを受けた秀吉は、城主・清水宗治の切腹を条件に急いで講和し、京へ向かった

なぜ高松城を攻めたのか

天正5年(1577年)ごろから、秀吉は信長の命令で中国地方の毛利家と戦っていました。播磨の三木城、因幡の鳥取城を兵糧攻めで落とし、天正10年にはいよいよ毛利家の領地である備中へ攻め込みます。

備中と備前の境には、毛利方の城が並んでいました(「境目七城」と呼ばれます)。高松城はその中心となる城で、城主は毛利家に仕える清水宗治でした。秀吉は周りの城を次々に落とし、4月中ごろから高松城を囲みます。

なぜ「水攻め」だったのか

高松城は、山の上ではなく平地に建つ城(平城)です。しかし城のまわりは深い沼や田んぼで、大軍が近づくと足をとられてしまいます。力攻めをすると、こちらの損害が大きくなる城でした。

そこで秀吉は、この「低い土地にある」という弱点を逆に利用しました。城の周りに堤を築いて水をせき止めれば、低い土地にある城はたちまち水に囲まれる、と考えたのです。水攻めを考えたのは軍師の黒田官兵衛だという話がよく知られていますが、確かな史料で裏づけられているわけではありません。

わずか12日で築いた堤

備中高松城の水攻めで堤を築く場面のイラスト
村人を集めて急いで堤を築く秀吉軍(イメージ)

堤の工事は5月8日ごろに始まり、19日ごろには完成したとされます。秀吉は近くの村人に、土を詰めた俵(土俵)を1俵運ぶごとに銭100文と米1升を払うと約束したと伝わります。当時としてはとても高い報酬で、多くの人が集まったといいます。

堤の大きさは、長さ約3〜4キロメートル、高さ約7〜8メートルと書かれることが多いですが、これは江戸時代の記録をもとにした数字です。近年の調査では、もっと短く低い堤で、自然の地形をうまく使ったのではないかという説もあります。

水に浮かぶ城

水に囲まれた備中高松城のイラスト
梅雨の雨で湖のようになった高松城と、取り囲む秀吉軍(イメージ)

ちょうど梅雨の時期で、足守川などの水がせき止められ、城のまわりはあっという間に湖のようになりました。城内では建物が水につかり、兵たちは小舟で行き来するほどだったと伝わります。

毛利家は、吉川元春・小早川隆景、そして当主の毛利輝元が援軍を率いて近くまで来ました。しかし、水に囲まれた城に近づく手立てがなく、秀吉軍とにらみ合うことしかできませんでした。秀吉は主君の信長にも出陣を求めていて、毛利家にとっては、信長本隊が来る前に講和したい状況でした。

本能寺の変と、清水宗治の切腹

小舟の上で舞う清水宗治のイラスト
両軍が見守るなか、小舟の上で舞う清水宗治(イメージ)

6月2日、京の本能寺で信長が明智光秀に討たれます。その知らせが秀吉の陣に届いたのは、翌3日の夜だったとされます。秀吉は信長の死を隠したまま、毛利家の使者・安国寺恵瓊と話を急いでまとめました。

講和の条件は、毛利家が備中・美作・伯耆を差し出すこと(実際の範囲は諸説あります)、そして城主・清水宗治が切腹することでした。宗治は、城兵の命を助けることを条件にこれを受け入れます。

6月4日、宗治は城から小舟をこぎ出し、両軍が見守る水の上で舞を舞ったあと、切腹しました。兄の清水宗知(月清入道)、弟の難波宗忠らも一緒に命を絶っています。辞世の句は「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」と伝わります。敵である秀吉も、宗治の見事な最期をたたえたといいます。

その後 — 中国大返しへ

宗治の切腹を見届けた秀吉は、6月6日ごろに高松を発ち、主君の仇を討つため京へ急ぎます。これが「中国大返し」です。そして6月13日、山崎の戦いで明智光秀を破り、天下人への道を歩み始めました。

毛利家が講和のあとで信長の死を知ってからも秀吉を追わなかったのは、小早川隆景が「約束を守るべき」と止めたからだ、という話が残っています。この判断が、のちに毛利家が豊臣政権で重く扱われるきっかけになったともいわれます。

日本三大水攻めの一つ

備中高松城の水攻めは、紀伊の太田城の水攻め(1585年)、武蔵の忍城の水攻め(1590年)とあわせて「日本三大水攻め」と呼ばれます。三つの水攻めの違いは「日本三大水攻めを比較」で比べています。

備中高松城のゆかりの地

  • 高松城址公園(岡山県岡山市北区高松):本丸跡が公園になっている。近くに資料館がある
  • 清水宗治自刃の地(同):二の丸跡に建つ寺の境内に、自刃の地を示す石碑がある
  • 蛙ヶ鼻築堤跡(同):水攻めの堤の一部とされる遺構が残る
  • 石井山(同):秀吉が本陣を置いた山

この戦いに登場した主な武将(羽柴秀吉方)

この戦いに登場した主な武将(毛利方)

※当サイトの合戦イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが場面や構図を指定して制作した想像図です。実際の布陣や装束をそのまま再現したものではありません。

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