きそ よしまさ
| 地域 | 甲信越(信濃木曽) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 武田氏→織田氏→徳川氏・豊臣氏 |
| 大名家 | 木曽氏 |
| 家紋 | 笹竜胆 |
| 主武器 | 槍 |
| 衣装・甲冑 | 具足 |
| 武将タイプ | 山国の国衆 |
木曽義昌(きそ よしまさ)は、信濃の木曽谷(今の長野県木曽地方)の領主である。天文9年(1540年)に生まれ、文禄4年(1595年)に亡くなった。武田信玄に従ってその娘を妻に迎えたが、天正10年(1582年)に織田信長方へ寝返り、これが武田家が滅びるきっかけとなった。
3行でわかる木曽義昌
- 信濃・木曽谷の領主。武田信玄に降り、信玄の娘・真理姫を妻とした
- 天正10年(1582年)、武田勝頼に背いて織田方につき、織田軍の甲州征伐の入り口を開いた
- 本能寺の変のあと徳川・豊臣の間で揺れ、最後は下総へ移されて亡くなった
目次
武田の一門として
木曽氏は、平安時代の武将・木曽義仲の子孫を名のる家である。義昌は武田信玄の信濃攻めで降伏し、信玄の娘を妻として武田家の一門扱いを受けた。木曽谷は美濃と信濃を結ぶ道の要所で、武田家にとって西の守りだった。
武田からの寝返り
天正3年(1575年)の長篠の戦いのあと、武田家の力は弱まり、重い負担に不満を持つ国衆も増えていった。天正10年(1582年)2月、義昌は武田勝頼に背いて織田方についた。勝頼は義昌を討とうとしたが、その間に織田軍が木曽口や伊那口から攻めこみ、わずか1か月ほどで武田家は滅んだ。義昌は戦後、信濃の筑摩・安曇の2郡を加えられた。
その後の木曽家
本能寺の変のあと、信濃は徳川・北条・上杉の争奪の場となり、義昌は徳川や豊臣の間を渡り歩いた。天正18年(1590年)、徳川家康が関東に移ると、義昌も木曽を離れて下総の網戸(今の千葉県旭市)に移され、そこで亡くなった(「信長と秀吉は降伏した敵をどう扱ったか」参照)。
木曽義昌をめぐる人物
ゆかりの地
- 木曽福島(福島城跡)(長野県木曽町):木曽氏の本拠の地
- 東漸寺(千葉県旭市):義昌の墓所とされる寺










































