あけち みつはる
| 地域 | 近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 明智家臣 |
| 大名家 | 明智 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 実戦具足 |
| 武将タイプ | 光秀の娘婿(明智秀満) |
明智秀満の別名(光春は後世の俗称)。光秀の娘婿で、本能寺の変では先陣を務めた。その後安土城を守り、山崎の戦いの後に坂本城で自害したとされる。
目次
光春と秀満
明智光春は、明智光秀の重臣・明智秀満の別名として知られる名である。辞典類は秀満を見出しとし、「左馬助光春の名でも俗称される」と説明する。つまり光春と秀満は同一人物とされ、光春は後世に広まった呼び名である。
秀満は、はじめ三宅弥平次と名のった。光秀の娘を妻とし、明智の姓を名のった。光秀の従弟とする辞典もあり、出自ははっきりしない。天正9年(1581)ごろには丹波福知山城の城主を務めた。生年は天文6年(1537)とする辞典があるが、確かではない。
本能寺の変から坂本城へ
天正10年(1582)6月2日、秀満は光秀の先陣として本能寺を攻めた。その後は安土城の守備についた。6月13日の山崎の戦いのとき、秀満は安土にいた。
光秀敗北の知らせを受けた秀満は、安土から近江坂本城に入った。坂本城は堀秀政の軍に攻められた。秀満は6月15日、光秀の妻子らを刺したのち自害したとされる。
湖水渡りの伝説
秀満の名を有名にしたのが「湖水渡り」の話である。安土から坂本へ向かう途中、大津で堀秀政の軍に行く手をふさがれた秀満は、馬に乗ったまま琵琶湖に入り、唐崎で岸に上がったという。大津市の打出浜には「明智左馬之介湖水渡りの碑」が建つ。
この話は江戸時代の軍記や講談で広まったもので、そのまま史実とはいえない。
ゆかりの地
- 明智左馬之介湖水渡りの碑(大津市打出浜):湖水渡り伝説の伝承地
- 坂本城跡(大津市):秀満が最期を迎えた城
- 福知山城(京都府福知山市):天正9年ごろ秀満が城主を務めた























