真田信繁 | 通称幸村。大坂の陣にて真田丸を築き家康の本陣へ突撃を敢行した不滅の英雄

さなだ のぶしげ

地域甲信越・近畿
所属勢力・属性真田氏
大名家真田氏
家紋六文銭
主武器朱塗大槍
衣装・甲冑赤備え具足
武将タイプ日本一の兵・悲壮

真田信繁は、信濃国上田城主・真田昌幸の次男として生まれ、通称の「幸村」の名で広く知られる。少年期には人質として上杉家、次いで豊臣家へ送られ、大坂で豊臣秀吉の側近くに仕えた経験を持つ。関ヶ原の戦いでは父・昌幸とともに西軍に与し、居城の上田城で徳川秀忠率いる大軍を巧みな籠城戦で足止めし、秀忠を関ヶ原本戦に遅参させるという大戦果を挙げた。

戦後は西軍に与した罪により父とともに高野山麓の九度山へ配流され、長い雌伏の時を過ごすことになる。しかし豊臣・徳川の対立が決定的となった大坂の陣に際し、九度山を脱出して大坂城に入城。冬の陣では出城「真田丸」を築いて徳川方の大軍を寡兵で撃退し、その名を天下に轟かせた。

翌年の夏の陣では、劣勢の豊臣方にあって徳川家康の本陣めがけて決死の突撃を敢行。家康を切腹寸前まで追い詰めたと伝えられるこの奮戦により、敵将であった島津家の記録にも「真田日本一の兵(つわもの)」と称賛される武名を残した。

最終的には安居神社付近で力尽き、49年の生涯を閉じたとされる。徳川方が総力を挙げても討ち取れなかったその奮戦ぶりは、判官贔屓の気質も相まって江戸期以降広く語り継がれ、真田十勇士をはじめとする数々の創作物の題材となった。

父・昌幸譲りの知略と、大坂の陣における捨て身の忠義は、滅びゆく豊臣家に殉じた悲劇の英雄として今なお絶大な人気を誇り、戦国武将の中でも屈指の人気を集める存在であり続けている。

信繁の私生活については、正室・竹林院(大谷吉継の娘)との間に多くの子女をもうけ、九度山での長い蟄居生活の中でも家族との絆を大切にしていたと伝えられる。九度山では地元の農民に真田紐の製法を伝授したという逸話もあり、単なる幽閉生活ではなく地域との交流も持っていたことがうかがえる。大坂の陣に際しては、旧知の武将たちから徳川方への寝返りを勧める誘いも受けたが、これを毅然として拒絶し、恩義のある豊臣家への忠義を貫いた。

大坂夏の陣における家康本陣への突撃は、家康の馬印を倒すほどの凄まじい迫力であったと複数の史料に記録されており、家康自身も自害を覚悟したとも伝えられる。この壮絶な奮戦により、敵であった島津家中の記録にすら「真田日本一の兵」と絶賛されるに至った。判官贔屓の気風も相まって、江戸期から現代に至るまで数多くの軍記物や創作の主人公として描かれ続け、戦国武将の中でも屈指の国民的人気を誇る存在であり続けている。

信繁の父・真田昌幸から受け継いだ知略と、九度山での長い雌伏の時を経てなお衰えなかった気概は、徳川という圧倒的な大勢力を相手に一歩も引かなかった大坂の陣での奮戦に色濃く表れている。滅びゆく主家のために全てを賭して戦い抜いたその生き様は、忠義と勇気の象徴として、時代を超えて多くの人々の心を捉え続けている。

信繁の存在は江戸時代の軍記物「難波戦記」などを通じて広く庶民にも知られるようになり、後世には架空の家臣団「真田十勇士」を主人公とする講談や立川文庫が大人気を博した。猿飛佐助や霧隠才蔵といった忍者たちが信繁を支えるという物語構成は史実ではないものの、判官贔屓の日本人の心情に強く訴えかけ、真田信繁という武将の名を不動の国民的英雄へと押し上げる原動力となった。

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