2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公・小栗上野介忠順。幕末に遣米使節として海を渡り、勘定奉行として幕府の財政を支え、横須賀製鉄所を築いた幕臣です。その家をさかのぼると、戦国時代に徳川家康のもとで槍をふるった三河の武士たちにたどり着きます。忠順の通称「又一」も、先祖の戦場での働きから生まれた名でした。小栗家はどこから来て、戦国の世をどう生き抜き、幕末の忠順へつながっていったのか。三河小栗氏の系譜をわかりやすく解説します。
小栗忠順の家は、三河で松平家(のちの徳川家)に仕えた小栗氏の流れをくむ旗本の家です。戦国時代の当主・小栗忠政は、合戦のたびに一番槍をあげたことから、徳川家康に「又一」の名を与えられたと伝わります。
忠政は家康の主な戦いに従い、上野・武蔵・下総に2,500石あまりを知行する旗本となりました。この家は江戸時代を通じて「又一」の名とともに続き、およそ250年後、幕末に忠順が生まれます。忠順が最期を迎えた上野国の権田村も、小栗家が代々治めてきた知行地のひとつでした。

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小栗家の系譜を年表で見る
| 時代 | 人物・できごと |
|---|---|
| 戦国時代のはじめ | 小栗氏の一族が三河にあり、松平家に仕える。出自には、松平家の分かれとする説と、常陸国の小栗氏(小栗御厨を本拠とした一族)の流れとする説がある |
| 16世紀なかば | 小栗吉忠が松平家・徳川家康に仕える |
| 天文24年(1555) | 吉忠の子・小栗忠政が生まれる |
| 13歳のころ | 忠政が家康の小姓として仕えはじめる |
| 元亀元年(1570) | 姉川の戦い。忠政が家康のそばで奮戦し、名槍を授かったと伝わる |
| 天正12年(1584) | 小牧・長久手の戦い。忠政は酒井忠次の手に属して戦う |
| 慶長5年(1600) | 関ヶ原の戦いに従う |
| 江戸時代のはじめ | 忠政が上野・武蔵・下総に2,550石を知行する旗本となる。武蔵国足立郡大成の普門院を菩提寺とする |
| 江戸時代 | 小栗家は代々「又一」を名乗る旗本として続く |
| 文政10年(1827) | 江戸・神田駿河台の屋敷で小栗忠順が生まれる |
| 万延元年(1860) | 忠順が遣米使節の目付としてアメリカへ渡る |
| 慶応4年(1868) | 忠順が知行地の上野国権田村に移り住んだのち、新政府軍に捕らえられて斬首される |
三河小栗氏とは ― 松平家に仕えた三河の武士
小栗氏は、三河国(いまの愛知県東部)で松平家に仕えた一族です。松平家は、家康の祖父・清康や父・広忠の代から、三河の小さな武士たちを家臣としてまとめあげ、のちに「三河武士」と呼ばれる強い家臣団をつくりました。小栗氏もその一員でした。
小栗氏がもともとどこから来たのかについては、はっきりしません。松平家の分かれとする説のほか、常陸国(いまの茨城県)の小栗御厨を本拠とした小栗氏の流れをくむとする説もあります。いずれにしても、戦国時代には三河で松平家に仕える武士の家となっていました。
| 人物 | 立場 | 小栗家とのかかわり |
|---|---|---|
| 松平広忠 | 家康の父。三河の松平家当主 | 小栗家が仕えた松平家の当主。苦しい時代の松平家を支えた三河武士の一族に小栗氏もいた |
| 小栗吉忠 | 忠政の父 | 松平家・家康に仕えた。戦国の小栗家の土台を築いた人物 |
| 小栗忠政 | 吉忠の子。家康の小姓から旗本へ | 一番槍の名手として「又一」の名を与えられたと伝わる。旗本・小栗家の祖 |
| 徳川家康 | 忠政の主君 | 小姓として仕えた忠政を引き立て、名と名槍を与えたと伝わる |
| 酒井忠次 | 徳川四天王の一人 | 小牧・長久手の戦いで、忠政はその手に属して戦った |
小栗家と関係が深かった人物
小栗忠政 ―「又一」の名を生んだ一番槍
戦国時代の小栗家でいちばん名高いのが、小栗忠政です。天文24年(1555)に吉忠の子として生まれ、13歳で家康の小姓となりました。小姓は主君の身のまわりに仕える役目ですが、戦場では主君のすぐそばで戦う立場でもあります。
忠政の名を広めたのは、元亀元年(1570)の姉川の戦いです。家康のそばを守っていた忠政は、襲いかかる敵兵を相手に奮戦し、その働きを賞されて家康から名槍を授かったといいます。

忠政のもとの通称は「又市」でした。ところが合戦のたびに一番槍をあげるので、家康が「また一番か」と言ったことから「又一」と改めたと伝わります。一番槍は、敵と最初に槍を合わせる、もっとも危険で名誉ある手柄です。それを何度もくり返したことが、そのまま家の名になったのです。
その後も忠政は、駿河への侵攻、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦い、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いと、家康の主な戦いのほとんどに加わりました。一族郎党は「小栗党」と呼ばれ、忠政とともに槍働きを続けたといいます。
大名ではなく旗本として ― 2,550石の小栗家
数々の戦功を重ねた忠政でしたが、大名(1万石以上)にはなりませんでした。最終的な知行は、上野・武蔵・下総の三か国にまたがる2,550石です。小さく見えるかもしれませんが、三河以来の古い家臣の多くは、同じくらいの規模の旗本として江戸時代を迎えています。将軍のすぐそばに仕える直参として、家の格は高いものでした。
| 場所 | 小栗家とのかかわり |
|---|---|
| 武蔵国足立郡大成(いまのさいたま市大宮区) | 忠政が拠点とし、普門院を復興して小栗家の菩提寺とした。小栗家代々の墓がある |
| 上野国群馬郡権田村(いまの群馬県高崎市倉渕町) | 小栗家に伝わる知行地のひとつ。幕末に忠順が移り住み、最期を迎えた地。東善寺に忠順の墓がある |
| 江戸・神田駿河台 | 江戸時代の小栗家の屋敷。忠順はここで生まれた |
小栗正信と「小栗流」
小栗の一族からは、武術の流派も生まれています。江戸時代のはじめ、小栗正信(仁右衛門)が開いた「小栗流」は、組討ちや柔術を中心とする流派として知られ、のちに土佐藩などに伝わりました。正信は小栗一族の出とされますが、忠政の家との細かな続柄には諸説があります。戦国の戦場で磨かれた組討ちの技が、平和な時代に武術の流派として形を変えて受け継がれていった例といえるでしょう。
幕末の小栗忠順へ ― 受け継がれた「又一」
江戸時代の小栗家は、代々「又一」を名乗る旗本として続きました。そして文政10年(1827)、江戸・神田駿河台の屋敷で生まれたのが小栗忠順です。忠順も若いころから「又一」と称しました。忠政からかぞえておよそ250年、戦国の一番槍の名は、幕末の幕臣へと受け継がれたのです。

忠順は万延元年(1860)、日米修好通商条約の批准書を交わす遣米使節の目付としてアメリカへ渡りました。帰国後は勘定奉行などを歴任し、幕府の財政の立て直しや、横須賀製鉄所の建設、フランス式の軍制改革などに取り組みます。しかし戊辰戦争が始まると、新政府軍との徹底抗戦を主張して退けられ、慶応4年(1868)、知行地の権田村で新政府軍に捕らえられ、斬首されました。

| 小栗忠政(戦国) | 小栗忠順(幕末) | |
|---|---|---|
| 主君 | 徳川家康 | 徳川家茂・慶喜 |
| 通称 | 又一(もとは又市) | 又一 |
| 知られる働き | 姉川など合戦での一番槍 | 遣米使節、勘定奉行、横須賀製鉄所の建設 |
| 家の立場 | 2,550石の旗本・小栗家を開く | 同じ小栗家の当主として幕府を支える |
| ゆかりの地 | 武蔵・大成の普門院 | 上野・権田村の東善寺、武蔵・大成の普門院 |
戦場で家康を守った一番槍と、幕府を最後まで支えようとした幕臣。時代も役目もまったく違いますが、どちらも徳川家に最後まで尽くした「又一」でした。2027年の大河ドラマで忠順を見るとき、その背後にある戦国の三河武士の家の歴史を思い出すと、また違った面白さが見えてくるはずです。
まとめ
小栗忠順の家は、戦国時代に松平家・徳川家に仕えた三河小栗氏の流れをくむ旗本の家です。家康の小姓から身を起こした小栗忠政は、合戦のたびに一番槍をあげて「又一」の名を与えられたと伝わり、2,550石の旗本・小栗家を開きました。この家は江戸時代を通じて「又一」の名とともに続き、幕末に忠順を生みます。忠順が最期を迎えた権田村も、小栗家が代々治めた知行地でした。






























