木下延俊 | 北政所の甥。関ヶ原では姫路城を家康に差し出して東軍につき、豊後日出藩の初代となった

木下延俊のイラスト(イメージ)

きのした のぶとし

地域九州(豊後)
所属勢力・属性豊臣家の親族・徳川家に従う
大名家木下家
家紋―
主武器―(采配)
衣装・甲冑具足・陣羽織
武将タイプ親族大名

木下延俊(きのした のぶとし)は、北政所の兄・木下家定の三男として天正5年(1577)に生まれた。北政所がもっともかわいがった甥といわれる。小早川秀秋は同じ母をもつ弟、歌人として知られる木下勝俊は異母兄にあたる。関ヶ原の戦いでは東軍につき、豊後日出藩3万石の初代藩主となった。

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姫路城代から播磨三木へ

延俊は12歳で知行を与えられて秀吉に仕え、父の家定が大坂にいるあいだは、父が城主をつとめる姫路城の城代を任された。文禄の役では肥前名護屋に在陣し、名護屋城のまわりには延俊の陣跡が残る。文禄3年(1594)には伏見城の普請を分担し、播磨三木郡で2万石を与えられた。

関ヶ原 ― 義兄・細川忠興の助言

延俊の正室は細川藤孝(幽斎)の娘で、細川忠興は義兄にあたる。慶長5年(1600)に石田三成が挙兵したとき、延俊は姫路城にいたが、忠興の助言を受けてすぐに家康のもとへ使者を送り、姫路城を差し出して東軍につくことを誓った。一方で、いったん西軍に加わった弟の秀秋が姫路城に入ろうとしたのは断ったという話が伝わっている。

豊後日出藩の初代

関ヶ原の本戦ののち、延俊は忠興に従って丹波の福知山城を攻め、城主の小野木重勝を降した。この功で慶長6年(1601)、豊後速見郡3万石に移り、翌年日出城を築いて日出藩を開いた。日出藩の木下家は明治まで続き、北政所の実家の流れを今に伝えている。延俊は茶の湯もたしなみ、寛永19年(1642)に亡くなった。

木下延俊をめぐる人物

ゆかりの地

  • 日出城跡(大分県速見郡日出町):延俊が築いた日出藩の居城
  • 姫路城(兵庫県姫路市):延俊が城代をつとめ、関ヶ原で家康に差し出した城
  • 木下延俊陣跡(佐賀県唐津市):名護屋城を囲む陣跡のひとつ(国の特別史跡)
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