神屋宗湛 | 博多の豪商・茶人。秀吉の博多復興を支え、名護屋城で黄金の茶室に入って『宗湛日記』に書き残した

神屋宗湛のイラスト(イメージ)

かみや そうたん

地域九州(筑前)
所属勢力・属性博多の商人
大名家神屋家
家紋―
主武器―
衣装・甲冑僧形・道服
武将タイプ豪商・茶人

神屋宗湛(かみや そうたん)は、天文20年(1551)に博多の豪商・神屋家に生まれた商人であり茶人である。曽祖父の神屋寿禎は石見銀山の開発にかかわったことで知られる。島井宗室・大賀宗九とともに「博多三傑」と呼ばれ、豊臣秀吉に重んじられて博多の復興を支えた。宗湛が残した茶会の記録『宗湛日記』は、黄金の茶室の姿を今に伝える貴重な史料となっている。

目次

本能寺の変に居合わせる

天正10年(1582)、宗湛は島井宗室とともに上洛し、織田信長に謁見した。そのまま本能寺に泊まっていたところで本能寺の変に巻き込まれ、燃える寺から脱出する際に、信長が愛蔵した牧谿の「遠浦帰帆図」を持ち出したと伝わる。この絵はいま重要文化財として京都国立博物館に収められている。

秀吉に「筑紫の坊主」と呼ばれる

天正14年(1586)に大徳寺で出家して宗湛と号し、堺の津田宗及らとも親しく交わった。翌天正15年正月、大坂城の大茶会で秀吉に謁見すると、並みいる堺や奈良の豪商をおさえて上座にすわり、秀吉から「筑紫の坊主」と呼ばれて気に入られた。九州平定ののち、戦乱で荒れた博多の町を立て直す「太閤町割」では、宗湛が大きな役割を果たしている。

名護屋城の黄金の茶室

朝鮮出兵が始まると、宗湛は兵糧や物資を送る役目を担い、肥前名護屋にも出入りした。天正20年(1592)5月28日、名護屋城で黄金の茶室の茶会に招かれた宗湛は、三畳の座敷の柱や壁、障子、畳のようすをくわしく日記に書き残した。現在、各地にある黄金の茶室の復元は、この記録をもとにしている。

黒田家の御用商人として

秀吉の死後、宗湛は徳川家康には重んじられなかったが、関ヶ原の戦いののち筑前に入った黒田長政の御用商人となり、福岡城の築城を財力で支えた。長政の父・黒田官兵衛とは以前から茶の湯を通じて交流があった。寛永12年(1635)、85歳で亡くなっている。

神屋宗湛をめぐる人物

ゆかりの地

  • 博多(福岡市博多区):宗湛が「太閤町割」で復興に力を尽くした町
  • 佐賀県立名護屋城博物館(佐賀県唐津市):宗湛日記をもとに復元した黄金の茶室がある
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