摺上原の戦いをわかりやすく解説|伊達政宗はなぜ蘆名氏を倒せたのか — 猪苗代盛国の寝返りと会津の行方

磐梯山を背にした草原で、三日月の前立ての若い大将が率いる伊達軍が蘆名軍とぶつかるイラスト

天正17年(1589年)6月、23歳の伊達政宗は、会津(福島県西部)の名門・蘆名氏と、磐梯山のふもとの摺上原(すりあげはら)で決戦にのぞみました。勝った政宗は会津を手に入れ、南奥州のほとんどを支配する大大名になります。これが摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)です。この記事では、政宗がなぜ蘆名氏を倒せたのか、そしてせっかく手に入れた会津をなぜすぐに失うことになったのかを、わかりやすく解説します。

摺上原の戦いの基本データ

いつ 天正17年(1589年)6月5日
どこ 陸奥国の摺上原(福島県耶麻郡磐梯町・猪苗代町のあたり、磐梯山のふもと)
誰と誰 伊達政宗 対 蘆名義広(佐竹義重の子)
兵力 伊達方は約2万3千、蘆名方は約1万6千といわれる(諸説あり)
結果 伊達方の大勝。蘆名義広は常陸の佐竹家へ逃れ、戦国大名・蘆名氏は滅亡
この後 政宗は会津黒川城に入り、南奥州の大部分を支配。しかし翌年、秀吉の小田原征伐に遅れて参陣し、会津を取り上げられる
目次

摺上原の戦いを3行でいうと

  • 会津の蘆名氏は当主の早死にが続き、佐竹家から迎えた養子・義広のもとで家臣がまとまっていなかった
  • 伊達政宗は蘆名の重臣・猪苗代盛国を寝返らせ、猪苗代から一気に会津へ攻め込んだ
  • 摺上原で蘆名軍は大敗し、名門・蘆名氏は滅亡。しかし政宗は翌年、秀吉に会津を取り上げられた

戦いの背景 — 揺れる名門・蘆名氏

蘆名氏は、鎌倉時代から会津を治めてきた名門です。戦国時代には蘆名盛氏のもとで最盛期を迎えましたが、その後、当主が若くして亡くなる不幸が続きました。天正14年(1586年)には、わずか3歳の当主・亀王丸も亡くなり、蘆名家は跡継ぎを失います。

家臣たちの話し合いの末、蘆名家は常陸の佐竹義重の次男・義広を養子に迎えました。伊達政宗も弟の小次郎を跡継ぎに推していたため、この決定は伊達と蘆名の関係を悪くしました。さらに、佐竹家から義広についてきた家臣と、もとからの蘆名の家臣の間には、深い対立が生まれていました。

一方、政宗は天正13年(1585年)の人取橋の戦いで、佐竹・蘆名らの連合軍の攻撃をしのぎ、勢力を広げていきます。南奥州は、伊達と、佐竹・蘆名を中心とする連合との争いの場になっていきました。

猪苗代盛国の寝返り

磐梯山を背にした草原で、三日月の前立ての若い大将が率いる伊達軍が蘆名軍とぶつかるイラスト
磐梯山のふもと、摺上原で伊達軍と蘆名軍がぶつかった。風向きが変わると伊達軍が一気に攻勢に出たと伝わる(イラスト)

天正17年(1589年)、政宗は蘆名氏を倒す好機をうかがっていました。そこで、蘆名の重臣で、会津の東の入り口・猪苗代城を守る猪苗代盛国に寝返りをすすめます。盛国はこれに応じ、伊達軍を猪苗代へ迎え入れました。

猪苗代は、磐梯山の南に広がる猪苗代湖のほとりにあり、ここを越えれば会津の本拠・黒川城(のちの会津若松城)はすぐそこです。蘆名義広は、須賀川方面に出陣していた軍を急いで呼び戻し、黒川から猪苗代へ向けて出陣しました。

摺上原の決戦

橋の落ちた川のほとりで伊達の騎馬武者に追われる蘆名軍のイラスト
敗れた蘆名軍は日橋川へ追いつめられた。橋が落とされていて渡れない兵も多かったと伝わる(イラスト)

6月5日、両軍は磐梯山の南のふもと、摺上原でぶつかりました。はじめは、追い風を受けた蘆名軍が優勢だったといわれます。しかし、やがて風向きが変わって伊達軍に追い風となると、伊達軍は一気に攻勢に出ました。

蘆名軍の中には、まだ迷っている武将や、戦わずに様子を見ている部隊もありました。家臣のまとまりを欠いた蘆名軍は崩れ、日橋川(にっぱしがわ)へ追いつめられます。橋が落とされていたため、川を渡れずにおぼれる兵も多かったと伝わります。

蘆名氏の滅亡と、政宗の絶頂

大敗した蘆名義広は、黒川城に戻ることもできず、実家の佐竹家のある常陸へ逃げました。こうして、400年近く会津を治めてきた戦国大名の蘆名氏は滅亡します。

6月11日、政宗は黒川城に入り、ここを新しい本拠としました。その後、須賀川の二階堂氏なども倒し、政宗は陸奥の南部の大部分を手に入れます。わずか23歳で、政宗は東北最大の大名になりました。

福島県会津若松市の会津若松城(鶴ヶ城)の天守と石垣
会津若松城(鶴ヶ城)。蘆名氏の本拠・黒川城の跡で、摺上原の戦いのあと政宗が入った。今の城は蒲生氏郷らが築いたもの(筆者撮影)
鶴ヶ城の走長屋と天守
鶴ヶ城の本丸。政宗は翌年、秀吉に会津を取り上げられ、この地を去った(筆者撮影)

その後 — 秀吉の「惣無事令」と会津没収

しかし、このとき天下はすでに豊臣秀吉のものになりつつありました。秀吉は大名どうしが勝手に戦うことを禁じており(惣無事令)、政宗の会津攻めは、この命令に背く行いとみなされたのです。

翌天正18年(1590年)、秀吉が小田原征伐を始めると、政宗は迷った末に、遅れて小田原へ参陣しました。死を覚悟して白装束で秀吉の前に出たという話は有名です。命は助けられましたが、摺上原の戦いで手に入れた会津などの領地は取り上げられ、会津には蒲生氏郷が入りました。

摺上原の戦いのゆかりの地

  • 摺上原古戦場(福島県耶麻郡磐梯町・猪苗代町):磐梯山のふもとに広がる戦場跡。古戦場の碑が立つ
  • 猪苗代城跡(亀ヶ城公園)(福島県耶麻郡猪苗代町):猪苗代盛国の城。盛国の寝返りで伊達軍が会津に入る入り口となった
  • 会津若松城(鶴ヶ城)(福島県会津若松市):蘆名氏の本拠・黒川城の跡に、蒲生氏郷が築いた城
  • 人取橋古戦場(福島県本宮市):摺上原の4年前、政宗が佐竹・蘆名らの連合軍の攻撃をしのいだ戦場

筆者のひとこと

会津と聞くと、どうしても幕末の戊辰戦争のイメージが強い土地です。しかし戦国時代をたどると、政宗が摺上原で手に入れた会津には、その後蒲生氏郷が入り、さらに上杉景勝が入りました。そして上杉家は関ヶ原のあと、もともと伊達家の本拠だった米沢へ移ります。どんないたずらかはわかりませんが、上杉家が政宗の城地のあとを追いかけるような形になっているのは、歴史のおもしろいところです。

人生で何かに賭ける瞬間は、誰にでも一度はあるもの。23歳の政宗にとっては、この摺上原の戦いがまさにその一戦だったのだと思います。

この戦いに登場した主な武将(伊達方)

この戦いに登場した主な武将(蘆名方)

※当サイトの合戦イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが場面や構図を指定して制作した想像図です。実際の布陣や装束をそのまま再現したものではありません。

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