「戦国最強」とも言われる武田信玄。しかしその信玄が、若いころに二度も手痛い敗北を喫した相手がいます。北信濃の勇将・村上義清です。天文17年(1548年)の上田原の戦い(うえだはらのたたかい)では、信玄は重臣の板垣信方・甘利虎泰を失い、自らも傷を負いました。さらに天文19年(1550年)の砥石崩れ(といしくずれ)では、砥石城を落とせずに退く途中で大損害を出します。この記事では、信玄を二度破った村上義清との戦いを、わかりやすく解説します。
| 上田原の戦い | 天文17年(1548年)2月14日。信濃国の上田原(長野県上田市)。武田晴信(信玄)対 村上義清。武田方は板垣信方・甘利虎泰を失って敗れる |
|---|---|
| 砥石崩れ | 天文19年(1550年)9〜10月。村上方の砥石城(戸石城、上田市)を武田晴信が囲むが落とせず、撤退中に追撃されて大損害 |
| 結果 | どちらも村上義清の勝利。信玄が生涯で喫した数少ない大敗とされる |
| この後 | 天文20年(1551年)、真田幸隆(幸綱)の調略で砥石城が落ちる。天文22年(1553年)に義清は本拠の葛尾城を追われ、越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼る。これが川中島の戦いの始まりとなる |
上田原の戦い・砥石崩れを3行でいうと
- 信濃へ勢力を広げていた武田晴信(信玄)が、北信濃の村上義清と上田原で戦い、重臣二人を失って敗れた
- 2年後、晴信は村上方の砥石城を囲んだが落とせず、退却中に追撃されて「砥石崩れ」と呼ばれる大敗をした
- 砥石城はその翌年、真田幸隆の調略で落ち、追われた義清が上杉謙信を頼ったことで、川中島の戦いが始まった
信濃をめぐる戦い — 武田晴信と村上義清
天文10年(1541年)、父・信虎を甲斐から追い出して当主となった武田晴信は、隣国の信濃へ次々に攻め込みました。諏訪氏を滅ぼし、佐久郡を手に入れた晴信の前に立ちはだかったのが、北信濃の葛尾城(かつらおじょう、長野県坂城町)を本拠とする村上義清です。
義清は、北信濃の武士たちをまとめる力を持った、信濃でも指折りの大名でした。天文16年(1547年)、晴信が佐久の志賀城を攻め落とし、城兵を厳しく処分すると、信濃の武士たちの間では武田への反発が強まっていきます。
上田原の戦い(1548年)— 二人の宿老を失う

天文17年2月、晴信は雪の残る大門峠を越えて北信濃へ攻め込み、千曲川のほとりの上田原で村上軍と向かい合いました。
2月14日、戦いが始まります。武田軍の先陣を務めた宿老・板垣信方は、はじめ村上軍を押し込みましたが、勝ちに乗じて油断したところを反撃され、討ち死にしたと伝わります。続いて同じく宿老の甘利虎泰も討ち死にし、晴信自身も傷を負いました。板垣・甘利は、父・信虎の時代から武田家を支えてきた重臣で、晴信にとっては大きな痛手でした。
退かない晴信と、母の手紙
敗れたにもかかわらず、晴信はすぐには甲斐へ戻らず、20日ほど戦場の近くにとどまり続けたといわれます。負けを認めたくなかったのでしょうか。心配した母・大井夫人が手紙を送って説得し、晴信はようやく兵を引いたと『甲陽軍鑑』などは伝えています。
この敗戦をきっかけに、信濃の小笠原長時らが武田に背きました。しかし晴信は同じ年の7月、塩尻峠の戦いで小笠原軍を破り、立て直しを見せます。
砥石崩れ(1550年)— 落ちない城

天文19年(1550年)、小笠原長時を追い払った晴信は、いよいよ村上義清の勢力を崩すため、砥石城(戸石城)を攻めました。砥石城は、上田平を見下ろす山の上の城で、村上方の東の守りの要でした。
武田軍は8月末から城を囲み、9月に入って攻撃を重ねましたが、急な崖に守られた城はびくともしません。そのうちに、義清が別の場所での戦いを終えて救援に向かってきたため、晴信は10月1日、包囲をといて退くことにしました。
ところが、退く武田軍に村上軍が襲いかかります。武田方では横田高松(たかとし)ら多くの将兵が討ち死にしました。この大敗は「砥石崩れ」と呼ばれ、信玄の生涯で最大の敗北ともいわれます。
真田幸隆の調略で、砥石城が落ちる
力攻めで落とせなかった砥石城を落としたのは、信濃の小県(ちいさがた)出身で武田に仕えていた真田幸隆(幸綱)でした。天文20年(1551年)5月、幸隆は城内の武士を味方に引き入れ(調略)、わずか一日で砥石城を乗っ取ったといわれます。真田家が武田家の中で重く用いられるようになったのは、この功績が大きかったと考えられています。
その後 — 村上義清、謙信を頼る
砥石城を失った村上義清は、しだいに追いつめられていきます。天文22年(1553年)、晴信の攻撃と家臣の寝返りにより、義清は本拠の葛尾城を捨て、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)のもとへ逃れました。
義清の求めに応じて景虎が北信濃へ出陣したことで、武田と上杉の長い戦い、川中島の戦いが始まります。信玄を二度破った村上義清は、その後も上杉家の武将として信玄と戦い続けました。
上田原の戦い・砥石崩れのゆかりの地
- 上田原古戦場(長野県上田市):千曲川のほとりの戦場跡。板垣信方の墓と伝わる場所や、戦いの碑がある
- 砥石城跡・米山城跡(長野県上田市):武田軍を退けた山城。真田幸隆の調略で落ちた。上田市の史跡
- 葛尾城跡(長野県埴科郡坂城町):村上義清の本拠。山の上に城跡が残る
- 真田氏歴史館・真田氏本城跡(長野県上田市真田町):真田幸隆ゆかりの地。砥石城からも近い
筆者のひとこと
村上義清は、局地戦では勝つものの、全体としては後退を余儀なくされた武将、という印象です。
この戦いに登場した主な武将(武田方)
この戦いに登場した主な武将(村上方)
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