こでら のりもと
| 地域 | 近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 播磨小寺氏 |
| 大名家 | 播磨小寺氏 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀・行政書状 |
| 衣装・甲冑 | 重臣具足 |
| 武将タイプ | 御着城主・黒田の主家 |
播磨の国人・小寺氏の当主で、小寺政隆の子、小寺政職の父。守護赤松氏の重臣の家に生まれ、浦上氏や赤松晴政と争った。天文14年(1545年)に子の政職へ御着城主の座を譲って隠居したとされる。黒田氏の取り立ては主に政職の代である。
目次
播磨の国人・小寺氏
小寺則職は、播磨の国人・小寺氏の当主である。小寺氏は播磨守護・赤松氏の重臣の家で、姫路・御着のあたりを本拠とした。則職は小寺政隆の子で、黒田官兵衛の主君として知られる小寺政職の父にあたる。生没年は明応4年(1495年)〜天正4年(1576年)とする説がある。
永正16年(1519年)、父の政隆は御着城(姫路市)を築いて移った。則職は姫路城を預かり、のちに御着城に入ったとされる。室町時代の同名の祖父(小寺則職)がいるため、区別が必要である。
赤松氏・浦上氏との争い
戦国時代の播磨では守護赤松氏の力が衰え、守護代の浦上氏が力を伸ばした。永正17年(1520年)、則職は守護赤松義村の命で浦上村宗方と戦ったが、宇喜多能家の活躍や味方の寝返りで大敗したとされる。
父の政隆は赤松晴政を支えたが、則職は晴政と距離を置いた。天文7年(1538年)には出雲の尼子晴久と結び、晴政が籠もった高砂城の攻撃に加わったとされる。天文9年(1540年)には晴政らと和睦した。
家督の譲渡と黒田氏
天文14年(1545年)、則職は子の政職に御着城主の座を譲って隠居したとされる。
この頃、黒田重隆・職隆の父子が小寺氏に仕えた。職隆は政職に仕えて姫路城の城代となり、小寺の姓を許された。職隆の子が黒田孝高(官兵衛)である。黒田氏の取り立ては、主に政職の代のこととされる。
ゆかりの地
- 御着城跡(兵庫県姫路市):父・政隆が築いた小寺氏の本城。則職もここに入ったとされる。




















