藤堂高吉 | 丹羽長秀の三男で藤堂高虎の養子。伊賀名張に陣を置き、藤堂家の前線部隊として大坂の陣などで戦功を挙げた

藤堂高吉

とうどう たかよし

地域近畿
所属勢力・属性藤堂家臣
大名家藤堂
家紋藤巴
主武器大槍
衣装・甲冑軽捷具足
武将タイプ勇猛・若武者

丹羽長秀の三男で藤堂高虎の養子。伊賀名張に陣を置き、藤堂家の前線部隊として大坂の陣などで戦功を挙げた。

3行でわかる藤堂高吉
  • 天正7年(1579年)、丹羽長秀の三男として生まれる。天正10年(1582年)に羽柴(豊臣)秀長の養子となった
  • 秀長の跡継ぎに秀吉の甥・秀保が選ばれると、天正16年(1588年)ごろ藤堂高虎の養子に出された。のちに伊予今治2万石を27年間治めた
  • 高虎に実子・高次が生まれたため本家は継がず、寛永13年(1636年)に伊賀名張へ移って名張藤堂家の祖となった。寛文10年(1670年)没
目次

名門の血を継ぐ武将

藤堂高吉(とうどう たかよし)は、織田家の宿老・丹羽長秀の三男として生まれ、のちに築城の名手として名高い藤堂高虎の養子となった武将です。名門の血を引きながら、養家の藤堂家を支える立場となりました。

藤堂高虎と築城

養父・藤堂高虎は、主君を次々と替えながら出世を重ね、徳川家康の信任を得て伊勢・伊賀の大大名となった人物で、数多くの名城を手がけた築城の名手として知られます。藤堂高吉は、この高虎のもとで藤堂家の武将として育ちました。

伊賀名張を預かって

藤堂高吉は、伊賀の名張(なばり)に陣を置き、藤堂家の前線部隊を率いる立場となりました。要地を預かることは、養家における重要な役割を担うことを意味していました。

大坂の陣での戦功

慶長19〜20年(1614〜15年)の大坂の陣で、藤堂高吉は藤堂軍の一翼として参戦し、戦功を挙げました。その家系は、のちに名張藤堂家として続いていきます。高吉の生涯は、名門・丹羽の血を引きつつ、養家・藤堂家の前線を担った武将の歩みを今に伝えています。

秀長の養子から高虎の養子へ

高吉は丹羽長秀の三男で、幼名を仙丸といった。天正10年(1582年)、子のいなかった豊臣秀長の養子となる。秀長の跡を継ぐ可能性もあった人物である。

しかし秀吉は、自分の甥で秀次の弟にあたる秀保を秀長の後継ぎにすることを決める。そのため高吉は、天正16年(1588年)ごろ、秀長の重臣だった藤堂高虎の養子に出された。このとき秀長が1万石を付けたと伝わる。

今治城主の27年

慶長13年(1608年)、養父の高虎が伊賀・伊勢へ移ると、高吉は徳川家康の指示で伊予の今治に残り、今治2万石を治めた。その期間は27年に及ぶ。

ところが高虎には、慶長6年(1601年)に実子の高次が生まれていた。本家は高次が継ぎ、高吉は藤堂家の家臣筋という立場にとどまる。寛永12年(1635年)、今治に松平定房が入ると伊勢に替地を与えられ、翌寛永13年(1636年)には高次の命で伊賀名張へ移った。

名張藤堂家の祖

高吉の家は名張藤堂家(藤堂宮内家)として江戸時代を通じて続いた。名張市は、高吉が本家の相続をめぐって争わずに受け入れた人物として紹介している。寛文10年(1670年)に名張で亡くなった。90歳を超える長寿だった。

藤堂高吉をめぐる人物

ゆかりの地

  • 名張藤堂家邸跡(三重県名張市丸之内):三重県の史跡。宝永7年(1710年)の大火のあとに再建された屋敷の一部が公開されている
  • 徳蓮院(名張市):高吉の菩提寺で墓所
  • 今治城(愛媛県今治市):高吉が27年間を過ごした城

この人物をもっと知る本

  • 【歴史小説】摂津守『我慢じゃ高吉!』(三重大学出版会):秀長・高虎の養子として揺れ動いた高吉の生涯を描く小説
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