長篠の戦い|「三段撃ち」は本当にあったのか――鉄砲が変えた合戦の常識

天正3年(1575年)5月21日、三河国・設楽原(したらがはら)。梅雨のぬかるむ低地で、織田・徳川の連合軍と、甲斐の名門・武田軍が激突した。長篠の戦い――鉄砲の一斉射撃が「最強」とうたわれた武田騎馬軍団を打ち砕いた、日本の合戦史の分水嶺として知られる一戦である。

だが、私たちが思い描くこの戦いの名場面――三千挺の鉄砲による「三段撃ち」――は、本当にあったのだろうか。長篠もまた、後世の物語によって鮮やかに脚色されてきた合戦のひとつである。定説をたどりながら、史料が示す「もうひとつの長篠」にも目を向けてみたい。

目次

合戦への道――勝頼の攻勢と長篠城

元亀4年(1573年)、甲斐の虎・武田信玄が上洛の途上で病没する。跡を継いだのが四男の武田勝頼だった。偉大すぎる父の影のもと、勝頼は自らの武威を示すべく、徳川領へ攻勢を強めていく。

その最前線に立ったのが、三河・長篠城である。城主の奥平信昌は、もともと武田に従っていたが、信玄の死を機に徳川家康方へ寝返っていた。勝頼にとって、この「裏切り者」の小城は是が非でも落とすべき標的だった。天正3年、勝頼は一万五千とも伝わる大軍で長篠城を包囲する。わずか五百の兵で守る奥平勢は、たちまち窮地に陥った。

鳥居強右衛門、援軍を告げて散る

落城寸前の長篠城から、援軍を求めて岡崎の家康・信長のもとへ走った男がいた。足軽・鳥居強右衛門である。彼は包囲網をかいくぐって走り抜き、「まもなく三万を超える大軍が到着する」との報を得て、再び城へと取って返した。

だが帰路、強右衛門は武田軍に捕らえられてしまう。勝頼は彼に、城へ向かって「援軍は来ない、降伏せよ」と叫ぶよう命じた。従えば命は助ける、と。強右衛門は承知したふりをして城の前に立つと、力の限りこう叫んだ――「あと二、三日で味方の大軍が来る。それまで持ちこたえよ!」。約束を破られた勝頼は激怒し、強右衛門を磔にして処刑した。だが、その命がけの叫びは城兵を奮い立たせ、長篠城は援軍到着まで持ちこたえる。一人の足軽の忠義が、戦いの流れを確かに変えたのである。

長篠に集った武将たち

織田・徳川連合軍

武田軍

※各肖像をクリックすると、その武将の詳細ページへ移動します。武田方の宿将(山県昌景・馬場信春・内藤昌豊・真田信綱ら)は、肖像を順次追加予定です。

背後を断つ――酒井忠次の献策

設楽原に到着した連合軍の兵力は、およそ三万八千。対する武田軍は一万五千前後と伝わる。数の上では連合軍が圧倒していたが、武田騎馬軍団の精強さを知る将たちには、なお楽観を許さぬ緊張が漂っていた。正面から力比べを挑めば、いかに数で勝ろうと甚大な損害は避けられない。信長が幾重もの馬防柵と大量の鉄砲で「守りながら攻める」布陣を選んだのは、その精強さを削ぐための計算だった。

決戦の前夜、徳川家臣の酒井忠次が一計を献じる。武田軍が長篠城を囲むために背後に築いた鳶ヶ巣山砦を、別働隊で奇襲しようというのだ。信長は軍議の場ではこの案を一度は退けてみせ、人払いをしたのちにひそかに忠次を呼び戻して実行を命じたと伝わる。機密を守るための芝居だったのだろう。忠次率いる別働隊は夜陰にまぎれて山を越え、払暁、鳶ヶ巣山砦を急襲してこれを陥落させた。長篠城は囲みを解かれ、武田軍は背後に敵を抱えたまま、退路への不安を植えつけられて設楽原の決戦に臨むことになる。盤面は、戦う前から少しずつ連合軍へ傾いていた。

【定説】三段撃ちと馬防柵の完勝

設楽原に着いた連合軍は、川をはさんで武田軍と対峙した。ここで織田信長が用意したのが、幾重にもめぐらせた馬防柵と、大量の鉄砲だったと伝わる。

よく知られた物語はこうだ。信長は三千挺の鉄砲を集め、これを三列に配置。一列が撃つ間に後列が弾込めを行い、絶え間なく銃弾を浴びせ続ける――世にいう「三段撃ち」である。武田自慢の騎馬隊は、柵に阻まれ、雨あられの銃弾の前に次々と倒れていった。この日、武田は山県昌景をはじめ、馬場信春・内藤昌豊・真田信綱ら、信玄以来の名だたる宿将を一挙に失う。まさに一つの時代が終わりを告げた戦いだった。

武田を支えた宿将たちの最期

設楽原の戦いがことさら凄惨に映るのは、武田家を長く支えてきた歴戦の名将たちが、この一日にまとめて散っていったからである。

赤一色の甲冑で全軍を鼓舞した猛将・山県昌景は、幾度も馬防柵へ突撃を繰り返した末に銃弾に倒れた。信玄の代からの重鎮・馬場信春は、勝頼を戦場から逃がすために殿軍を引き受け、味方の退却を見届けてから静かに討死したと伝わる。内藤昌豊、真田信綱・昌輝の兄弟、土屋昌続――信玄が手ずから育て上げた武田軍団の中核が、次々と柵の前に命を落としていった。

彼らの多くは、そもそも設楽原での決戦そのものに反対していたともいわれる。勝ち目の薄い戦と知りながら、主君・勝頼の決断に従い、最後まで武人としての務めを果たして散った。その姿は、武田家の栄光と悲劇を同時に体現している。宿将たちの死は単なる戦力の損失にとどまらず、武田という家の「背骨」が折れた瞬間でもあった。以後の武田は、名将たちが遺した威光をすり減らしながら、坂を下っていくことになる。

【新説】「三段撃ち」はあったのか

ところが、この劇的な「三段撃ち」には、以前から疑問が投げかけられている。

信長の側近・太田牛一が記した信頼性の高い一次史料『信長公記』には、じつは「三段撃ち」を明確に示す記述が見当たらない。三列交互射撃の物語は、後世に書かれた小瀬甫庵の『甫庵信長記』などで脚色・普及したもの、とする見方が有力になっている。鉄砲の数についても、三千挺という数字は諸説あり、実際にはより少なかったとする説も根強い。

また「武田騎馬軍団の突撃」というイメージも、近年は見直されつつある。当時の合戦では騎乗の武士も戦場では下馬して戦うのが一般的で、映画のように全軍が馬で突っ込んだわけではない、というのだ。

とはいえ、これらの検証は長篠の戦いの価値を下げるものではない。むしろ、鉄砲という新兵器を大量に集中運用し、野戦築城(馬防柵)と組み合わせて騎馬・徒歩の突撃を封じたという一点こそ、信長の革新性の核心である。細部の演出をはぎ取ってなお、長篠が「戦の常識を変えた戦い」であったことに揺るぎはない。

勝敗を分けたもの――鉄砲・地形・そして決断

勝敗の要因は、鉄砲だけではない。まず、二倍以上ともいわれる兵力差があった。加えて、設楽原という狭い低地の地形は、大軍で押し寄せる武田にとって不利に働いた。連合軍の酒井忠次は、別働隊を率いて武田軍の背後にある鳶ヶ巣山の砦を奇襲。退路への不安が、武田軍の動揺を誘った。

そして最大の分岐点は、勝頼の「退かなかった」決断にある。宿老たちは決戦を避けるよう進言したとも伝わるが、勝頼はあえて設楽原での正面決戦を選んだ。父・信玄を超えたいという若き当主の気負いが、最悪の形で裏目に出たのかもしれない。本多忠勝榊原康政ら徳川の猛将たちも奮戦し、連合軍は圧勝を収めた。

長篠が変えたもの――武田の落日

この一戦で、武田家は取り返しのつかない打撃を受けた。信玄以来の歴戦の重臣を大量に失い、軍事的にも精神的にも、かつての「最強」の面影は急速に薄れていく。長篠からわずか七年後の天正10年(1582年)、武田家は織田・徳川の侵攻の前にあえなく滅亡する。勝頼のあの日の決断が、名門・武田の落日を早めたことは否めない。

一方の信長にとって、長篠の勝利は天下統一への大きな足がかりとなった。鉄砲の集中運用という新しい戦い方は、以後の合戦のかたちを確実に塗り替えていく。長篠は、一つの家の終わりであると同時に、新しい時代の戦いの幕開けでもあったのだ。

長篠がひらいた新しい戦い

長篠の戦いが「時代を変えた」といわれるのは、単に鉄砲をたくさん使ったからではない。大量の鉄砲を組織的に運用するには、弾薬や火薬を安定して供給する経済力と、鉄砲足軽を訓練し統率する仕組みが欠かせない。信長がそれを実現できた背景には、堺をはじめとする商業都市を押さえ、兵と農を切り分けて専門の戦闘集団を養う――そうした新しい国のかたちがあった。鉄砲は、単体の武器である以上に、それを支える社会と経済の力の象徴だったのである。

個々の武勇や騎馬の突進力がものを言った時代から、資金力と組織力、そして飛び道具の集中運用が勝敗を分ける時代へ。長篠は、その転換を映す鏡のような一戦だった。武田の宿将たちの奮戦が旧い時代の最後の輝きだとすれば、柵の内側から放たれた無数の銃弾は、確実に近づく新時代の足音だったといえる。

結び

三段撃ちはあったのか、なかったのか。鉄砲は三千挺だったのか。長篠の戦いは、問いを重ねるほどに表情を変える。だが確かなのは、この設楽原で、旧来の武勇と新時代の技術が正面からぶつかり、時代の針が大きく動いたということだ。物語の華やかさに酔うだけでなく、その奥にある「本当は何が起きたのか」に目を凝らすとき、長篠はいっそう味わい深い一戦として立ち上がってくる。

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