旭姫(朝日姫)の最期|なぜ夫と別れさせられたのか、何歳で亡くなったのか、墓はどこにあるのか【豊臣兄弟!第40回】

朝日姫のイラスト(イメージ)

大河『豊臣兄弟!』第40回「あさひの輿入れ」では、秀吉・秀長の妹あさひ(朝日姫・旭姫)が、夫と別れて徳川家康に嫁ぐことになります。兄の天下取りのために40代で嫁いだ旭姫は、なぜ夫と別れさせられたのか。そして、どのような最期を迎え、どこに眠っているのか。この記事では、旭姫の後半生と最期を順にたどります。

朝日姫のイラスト(イメージ)
朝日姫(旭姫)のイラスト(イメージ)

先に結論

  • 別れさせられた理由:秀吉が、なかなか従わない家康を身内にして上洛させるため。ただし離縁の時期や事情には別の説もある
  • 何歳で亡くなった?:天正18年(1590)1月14日、48歳。家康に嫁いでから、わずか4年ほど後
  • どこで亡くなった?:京都の聚楽第。母・大政所の看病のために上洛していた
  • 墓はどこ?:京都・東福寺の塔頭南明院と、静岡市の瑞龍寺の2か所
目次

旭姫の生涯 ― 早見表

年 年齢(数え) 出来事
天文12年(1543) 1歳 尾張に生まれる。兄の秀吉より6歳、秀長より3歳下
(時期不明) ― 秀吉の家臣と結婚する。夫の名ははっきりしない
天正14年(1586)5月 44歳 夫と別れ、浜松の徳川家康のもとへ嫁ぐ
天正14年(1586)末 44歳 家康の本拠が駿府に移り、「駿河御前」と呼ばれる
天正16年(1588) 46歳 母・大政所の病気見舞いのため上洛
天正18年(1590)1月14日 48歳 京都の聚楽第で亡くなる

なぜ夫と別れさせられたのか

家康を「身内」にして上洛させるため

天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いのあと、秀吉と家康は和睦しましたが、家康は大坂へ挨拶に来ようとはしませんでした。関白となった秀吉にとって、東海の大大名である家康を従わせることは、天下統一の大きな課題でした。

武力で攻めるには手ごわい相手です。そこで秀吉は、自分の妹を家康の正室にして、家康を「義理の弟」にする道を選びました。家康の正室・築山殿は天正7年(1579)に亡くなっており、正室の座は空いていたのです。こうして、すでに夫のいた旭姫が、兄の政略のために嫁ぐことになりました。

最初の夫は誰だったのか

旭姫の最初の夫は、副田甚兵衛(そえだ じんべえ)とも、佐治日向守(さじ ひゅうがのかみ)とも伝わります。大河ドラマでは副田甚兵衛として描かれますが、どちらの名も後の時代に書かれた書物に出てくるもので、同じころの確かな記録には見えません。秀吉が出世するにつれ、妹の夫も秀吉の家臣として取り立てられていたと考えられています。

別れたあと、夫はどうなったのか

夫のその後についても、はっきりしたことはわかっていません。妻を奪われたことを恥じて自害したという話や、秀吉から与えられる所領を断って出家したという話が伝わりますが、いずれも後世の物語に近いものと見られています。

「無理やり別れさせた」とは限らない?

一般には「秀吉が妹を夫から引き離して家康に嫁がせた」と語られますが、江戸時代前期の『武家事紀』には、旭姫の離縁は家康との結婚より何年も前のことで、縁組も家康の側が望んだという記述があります。旭姫の前半生は史料が少なく、どこまでが本当の出来事なのか、まだ見方が分かれているのです。

「駿河御前」としての日々

天正14年(1586)5月、旭姫は大坂から浜松へ向かい、家康の正室となりました。このとき44歳。じつは家康も同じ天文12年(1543)の生まれで、二人は同い年でした。

それでも家康はすぐには上洛しませんでした。秀吉はさらに母の大政所まで人質として岡崎へ送り、ようやく家康は同じ年の10月に上洛して秀吉に臣従します。このいきさつは大政所の人質事件と家康の上洛でくわしく紹介しています。

その年の暮れ、家康は本拠を浜松から駿府(いまの静岡市)へ移し、旭姫も駿府で暮らすことになります。ここから「駿河御前」と呼ばれました。政略で結ばれた夫婦でしたが、徳川の家中で旭姫がどのように過ごしたのかを伝える記録は多くありません。

旭姫の最期 ― 母の看病で京へ、そして聚楽第で

天正16年(1588)、母の大政所が病に倒れると、旭姫は見舞いのために京へ上りました。そのまま秀吉の屋敷である聚楽第にとどまり、駿府には戻りませんでした。晩年は旭姫自身も病気がちだったと伝わります。

そして天正18年(1590)1月14日、旭姫は聚楽第で亡くなりました。48歳でした(徳川幕府が編さんした系譜による)。家康に嫁いでから、わずか4年足らずのことです。

ちょうどこの年、秀吉は北条氏を攻める小田原征伐の準備を進めていました。旭姫の死から2か月ほどのち、秀吉は小田原へ向かう途中、駿府に立ち寄って妹の墓に参っています。兄の天下取りのために嫁いだ妹は、兄が天下統一を成しとげる年に世を去ったのでした。

墓はどこにある? ― 京都と静岡の2か所

旭姫の墓は、京都と静岡の2か所にあります。晩年に臨済宗に帰依していた旭姫を、家康は京都の東福寺に葬り、その菩提を弔うために塔頭の南明院を建てました。さらに遺骨の一部を駿府の瑞龍寺に分けて墓を築いています。

場所 内容 アクセス
南明院(京都市東山区・東福寺の塔頭) 家康が旭姫の菩提を弔うために建てた寺。旭姫の肖像画が伝わる 東福寺の境内。塔頭は公開日が限られることがあるため事前に確認を
瑞龍寺(静岡市葵区井宮町) 分骨された旭姫の墓。旭姫の菩提寺 静岡駅からバスで約10分「材木町」下車、徒歩2分

瑞龍寺での法名は「瑞龍寺殿光室総旭大禅定尼」。境内の墓地の奥に、旭姫の墓が静かに立っています。秀吉が小田原へ向かう途中に参ったのも、この瑞龍寺の墓でした。

姉・とも、妹・あさひ ― 秀吉の兄弟姉妹のその後

旭姫は、秀吉の兄弟姉妹のなかで、兄の天下統一の年に最初に世を去りました。翌天正19年(1591)には兄の秀長が、天正20年(1592)には母の大政所が亡くなります。姉のともだけが長く生き、子の秀次が切腹させられる悲劇を見届けることになりました。豊臣家を支えた身内が次々と世を去っていったことが、のちの豊臣家の行方にも影を落としていきます。

よくある質問

Q. 旭姫(朝日姫)はなぜ夫と別れさせられたのですか?

A. 秀吉が、従おうとしない徳川家康を身内にして上洛させるため、妹を家康の正室にしたとされます。ただし、離縁はもっと前のことで縁組は家康側が望んだという記録もあり、見方は分かれています。

Q. 旭姫は何歳で亡くなりましたか?

A. 天正18年(1590)1月14日、48歳で亡くなりました。家康に嫁いだのは44歳のときでした。

Q. 旭姫はどこで亡くなりましたか?

A. 京都の聚楽第です。母・大政所の看病のために上洛し、そのまま京にとどまっていました。

Q. 旭姫の墓はどこにありますか?

A. 京都・東福寺の塔頭南明院と、静岡市葵区の瑞龍寺の2か所です。

まとめ

旭姫は、兄・秀吉が家康を従わせるための切り札として、44歳で夫と別れて家康に嫁ぎました。駿府で「駿河御前」と呼ばれたのち、母の看病のために京へ上り、天正18年(1590)に聚楽第で48歳の生涯を閉じます。墓は京都の南明院と静岡の瑞龍寺にあり、静岡の墓には、小田原へ向かう秀吉が立ち寄って手を合わせました。第40回で描かれる輿入れの先には、こうした短い後半生が待っています。

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