元亀2年(1571年)9月、織田信長は、平安時代から続く日本仏教の聖地・比叡山延暦寺を攻め、堂や塔に火を放ちました。これが比叡山焼き討ち(ひえいざんやきうち)です。「信長は神仏をも恐れぬ魔王だった」というイメージを決定づけた出来事として知られています。しかし近年の発掘調査からは、山上の被害は言い伝えほど大きくなかったのではないか、という見方も出ています。この記事では、信長がなぜ延暦寺を攻めたのか、何が起きたのかを、わかりやすく解説します。
| いつ | 元亀2年(1571年)9月12日 |
|---|---|
| どこ | 比叡山延暦寺と、ふもとの門前町・坂本(滋賀県大津市) |
| 誰と誰 | 織田信長(明智光秀・佐久間信盛らが加わる)対 比叡山延暦寺 |
| 被害 | 『信長公記』は僧や俗人の男女数千人が殺されたと記す。公家の日記には3千〜4千人とある |
| 結果 | 延暦寺の堂塔が焼かれ、寺領は没収された |
| この後 | 明智光秀が坂本を与えられて坂本城を築く。延暦寺は信長の死後、秀吉・家康のもとで再建が進んだ |
比叡山焼き討ちを3行でいうと
- 延暦寺は、信長と戦う浅井・朝倉の軍を山にかくまい、信長の味方につくことも中立を守ることも拒んだ
- 信長は比叡山を囲み、ふもとの坂本から山上まで攻めて火を放ち、僧や住民を数多く殺したと記録される
- 発掘調査では山上の焼けた跡は限られており、被害の中心はふもとの坂本だったとする見方もある
なぜ信長は延暦寺を攻めたのか — 志賀の陣
延暦寺は、平安時代のはじめに最澄が開いた天台宗の総本山です。朝廷や貴族の信仰を集め、多くの領地や僧兵(武装した僧)を持つ、大きな力を持った寺でした。
元亀元年(1570年)、姉川の戦いの後も信長と戦い続けた浅井長政・朝倉義景の軍は、比叡山に立てこもりました(志賀の陣)。信長は延暦寺に、「味方につけば奪った領地を返す。それができないなら中立を守ってほしい。どちらも聞かないなら山を焼き払う」と申し入れたと『信長公記』は伝えます。しかし延暦寺はこれを聞き入れず、浅井・朝倉軍をかくまい続けました。このとき信長は、弟の織田信治や重臣の森可成を失っています。
結局、この戦いは朝廷や将軍・足利義昭の仲立ちで和睦となりましたが、信長は延暦寺への怒りを忘れていませんでした。
焼き討ち — 元亀2年9月12日

元亀2年9月、信長は大軍で比叡山を囲みました。9月12日、織田軍はふもとの坂本の町に火を放ち、山へ攻め上りました。根本中堂(こんぽんちゅうどう)をはじめとする堂や塔が焼かれ、逃げまどう僧や、坂本から山へ逃げ込んだ人々が、身分や男女を問わず殺されたと『信長公記』は記しています。
公家の山科言継は日記に、3千〜4千人が殺されたと書きました。延暦寺の領地は没収され、家臣たちに分け与えられます。
明智光秀の役割
この焼き討ちで、大きな働きをしたのが明智光秀です。光秀は焼き討ちの前、近くの土豪に「味方しない者は撫で切りにする」という内容の手紙を送っており、積極的に作戦に加わっていたことがわかっています。光秀は戦いのあと、比叡山のふもとの坂本の領地を与えられ、琵琶湖のほとりに坂本城を築きました。
発掘調査が示す「別の姿」

焼き討ちの被害は、長いあいだ「山上の堂塔はすべて焼け落ちた」と考えられてきました。ところが、比叡山で行われた発掘調査では、この時期に焼けたことがはっきりしている建物は、根本中堂や大講堂など一部にとどまっています。ほかの場所では、それ以前に建物がなくなっていた跡も見つかっています。
当時、延暦寺の僧の多くは山の上ではなく、ふもとの坂本に住んでいたともいわれます。このため、焼き討ちの被害の中心は坂本の町で、山上の被害は言い伝えほどではなかったのではないか、という見方があります。ただし、多くの人が命を落としたことは同時代の記録からも確かで、被害の大きさをめぐっては今も議論が続いています。
信長は「宗教の敵」だったのか
比叡山焼き討ちや長島一向一揆での徹底した攻撃から、信長は宗教を憎んだ人物と思われがちです。しかし信長は、自分に従う寺社は保護しており、キリスト教の布教も認めていました。信長が攻めたのは、領地や兵を持ち、敵の大名と手を組んで信長に逆らった寺社でした。延暦寺の焼き討ちは、宗教への攻撃というより、敵対する「武装勢力」への攻撃だった、とみる研究者も多くいます。
とはいえ、日本仏教の聖地を焼いた信長の行いは、当時の人々に大きな衝撃を与えました。武田信玄は信長を非難する手紙の中で自らを「天台座主沙門」と名乗り、信長は「第六天魔王」と返した、という話も伝わっています(この逸話はルイス・フロイスの書簡によるもので、真偽ははっきりしません)。
その後 — 延暦寺の再建
信長が本能寺の変で亡くなったあと、延暦寺の再建が始まりました。豊臣秀吉や徳川家康の支援を受け、江戸時代のはじめには、家康の側近の僧・天海のもとで多くの堂塔が建て直されます。現在の根本中堂は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の命で寛永19年(1642年)に再建されたものです。
比叡山焼き討ちのゆかりの地
- 比叡山延暦寺(滋賀県大津市坂本本町):世界遺産「古都京都の文化財」の一つ。根本中堂は国宝
- 坂本の町並み(滋賀県大津市坂本):延暦寺の門前町。石積みの「穴太衆積み」の石垣が美しい
- 坂本城跡(滋賀県大津市下阪本):焼き討ちのあと明智光秀が築いた城の跡。琵琶湖の中に石垣の跡が残る
- 宇佐山城跡(滋賀県大津市):志賀の陣で森可成が守り、討ち死にした城
筆者のひとこと
筆者も延暦寺を訪れました。焼き討ちという戦いの場であったことなど、まったく感じられないほど静かで、神聖な場所でした。
信長のやり方は残酷ではありますが、仕方がなかったのかもしれません。そうしなければ、永遠に逆らわれ続けることになったでしょうから。
この出来事に登場した主な武将
※当サイトの合戦イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが場面や構図を指定して制作した想像図です。実際の布陣や装束をそのまま再現したものではありません。
































