さなだ ゆきたか
| 地域 | 信濃・上野 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 海野一族→武田家 |
| 大名家 | 真田家 |
| 家紋 | 六文銭(六連銭) |
| 主武器 | 刀 |
| 衣装・甲冑 | 黒糸威の具足に法体の姿 |
| 武将タイプ | 知将・調略 |
真田幸隆は、信濃の小県郡(いまの長野県上田市のあたり)を本拠とした武将で、のちの真田家の祖とされる人物です。実名は幸綱(ゆきつな)とされ、出家して一徳斎と号しました。武田信玄に仕えて信濃や上野の攻略で手柄を立て、子の信綱・昌輝・昌幸へと続く真田家の基礎を築きました。
海野一族の出身
幸隆は、信濃の名族・海野氏の一族の出身とされます。真田の郷(いまの上田市真田町)を本拠とし、「真田」を名字としました。父については、真田頼昌とする説や海野棟綱の子とする説などがあり、はっきりしていません。
海野平の戦いと上野への逃亡
天文10年(1541年)、武田信虎・村上義清・諏訪頼重が手を結んで小県に攻め入り、海野氏の一族は海野平の戦いで敗れました。幸隆は本領を失い、上野へのがれて箕輪城主・長野業正のもとに身を寄せたと伝わります。
武田信玄に仕える
その後、幸隆は信虎を追放して武田家の当主となった信玄(晴信)に仕えました。信濃の事情にくわしい幸隆は、信濃攻めの先方衆として重く用いられ、旧領の回復をめざしました。
戸石城を攻め取る
天文19年(1550年)、信玄は村上義清の戸石城(砥石城)を攻めましたが、大きな損害を出して退きました。これは「砥石崩れ」と呼ばれます。翌天文20年(1551年)、幸隆はこの戸石城を攻め取りました。力攻めではなく、城内の者を味方につける調略によったと伝わり、幸隆の知略を示す話として知られています。
戸石城の攻略によって村上氏の力は大きく弱まり、幸隆は真田の旧領を取り戻しました。
上野の攻略
幸隆は、信濃だけでなく上野の吾妻郡の攻略にも力を注ぎました。永禄6年(1563年)ごろには岩櫃城を攻め取ったとされ、のちに真田家が吾妻・沼田を治めるもとになりました。
晩年と子どもたち
幸隆は出家して一徳斎と名のり、家督を長男の信綱にゆずりました。天正2年(1574年)、戸石城で亡くなったと伝わります。信玄が亡くなった翌年のことでした。
子には、信綱・昌輝・昌幸・信尹らがいます。信綱と昌輝は翌年の長篠の戦いで戦死し、三男の昌幸が真田家を継ぎました。昌幸の子が信之と信繁(幸村)で、真田家は江戸時代には松代藩として続きました。
六文銭の家紋
真田家の家紋として知られる六文銭(六連銭)は、三途の川の渡し賃とされる六枚の銭を表すといわれます。死を恐れずに戦う覚悟を示すものとして語られ、幸隆のころから用いられたと伝わります。
評価
幸隆は、本領を失う苦境から武田家のもとで家を立て直し、調略にすぐれた知将として名を残しました。その知略は、子の昌幸、孫の信之・信繁へと受け継がれたといわれます。
ゆかりの地
- 真田氏本城跡(長野県上田市真田町):真田氏の本拠とされる山城の跡
- 真田氏歴史館(長野県上田市真田町):真田三代にまつわる資料を展示する施設
- 長谷寺(長野県上田市真田町):幸隆と妻の墓があると伝わる寺
- 戸石城跡(長野県上田市):幸隆が攻め取ったと伝わる村上氏の城
このイラストについて
このイラストは、信濃の山々と山城を背に、剃髪した姿で座る幸隆を描いています。
出家して一徳斎と号した晩年の姿をイメージし、具足の上に僧衣風の羽織を重ねました。思慮深い目つきで、調略にすぐれた知将の風格を表しています。
山の上の城は、幸隆が攻め取ったと伝わる戸石城をイメージしたものです。旗と胴には真田家の六文銭を入れました。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
参考にした資料
信濃の小県郡を本拠とした国衆。真田幸綱(幸隆)が武田信玄に仕えて信濃攻略で活躍し、子の昌幸は武田家滅亡後、織田・北条・徳川・上杉の間を渡り歩いて家を守った。
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