戦国の勝敗は陸の合戦だけで決まったわけではありません。天正十二年(一五八四)、尾張の水辺の城をめぐって、海から城を奪うという大胆な奇襲がありました。仕掛けたのは織田家きっての猛将・滝川一益。しかしこの一戦が、彼の武将人生を終わらせることになります。
織田家最強の方面軍を率いた男
滝川一益は鉄砲と忍びの扱いに長け、織田信長のもとで伊勢平定や甲州征伐に活躍した宿将です。武田氏を滅ぼした功で上野一国と関東の統括を任され、東国方面軍の司令官として関東に君臨しました。柴田勝家・明智光秀と並ぶ、織田家の方面軍団長の一人だったのです。
本能寺の変と、転落のはじまり
ところが本能寺の変で信長が倒れると、一益の足元は一気に崩れます。関東では北条氏が反撃に転じ、神流川の戦いで大敗して上野を失いました。畿内への帰還も遅れ、賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀吉と対立して敗者の側に立ちます。かつて一国を預かった猛将は、所領の大半を失って追い詰められていきました。
蟹江城とはどんな城か
蟹江城は尾張の西、伊勢湾にほど近い低湿地に築かれた水城でした。木曽川の河口や入り江が城のすぐそばまで入り込み、船で直接乗りつけられる立地です。陸路の抑えであると同時に、海と川の水運を握る要衝でもありました。だからこそ、水軍を使えば陸の大軍を迂回して一気に突ける弱点にもなっていたのです。
海からの奇襲、蟹江城占領
天正十二年、小牧・長久手の戦いで秀吉と徳川家康・織田信雄が対峙する最中、一益は海からの一手を選びます。九鬼嘉隆の水軍と組み、船団で伊勢湾から蟹江城へ迫ったのです。城方の隙を突いて一気に城を奪取し、家康・信雄の背後を脅かしました。水軍を巧みに使った、一益らしい大胆な奇襲でした。
家康・信雄の猛反撃と奪回
しかし家康と信雄の動きは速く、主力を返して蟹江城を包囲します。陸から城を締め上げ、水上でも九鬼水軍を押し返して補給路を断ちました。周囲の支城も次々と落とされ、孤立した一益はついに城を明け渡して撤退します。海から奪った城を、今度は陸と水の両面から奪い返されたのです。
猛将の失脚とその後
この敗戦で一益の再起の望みは断たれました。頼みの綱だった奇襲が失敗に終わり、彼は表舞台から退いて出家します。そして天正十四年、失意のうちに世を去りました。信長を支えた最強の方面軍司令官が、水辺の小さな城をめぐる一戦で幕を下ろす。蟹江城の戦いは、天下分け目の裏で一人の猛将の運命を決めた、忘れられがちな決戦でした。
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