いっしき よしさだ
| 地域 | 近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 丹後一色氏 |
| 大名家 | 丹後一色氏 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 塗具足 |
| 武将タイプ | 悲壮・果断 |
丹後守護・一色氏の当主で、一色義道の子。通称は五郎。細川藤孝・忠興の丹後侵攻に弓木城で抵抗したのち、天正8年(1580年)に明智光秀の仲介で和睦し、藤孝の娘を妻に迎えた。本能寺の変の後、天正10年(1582年)に宮津城で謀殺された。
丹後守護・一色氏
一色氏は足利氏の一門で、室町幕府の侍所の長官を務める四職(赤松・一色・山名・京極の4家)の家柄であった。代々、丹後国(京都府北部)の守護を務めた。戦国時代には勢いが衰えたが、なお丹後の国主として続いていた。
義定は一色義道の子である。通称は五郎。別名は義俊とされ、ほかにも名が伝わる。
細川藤孝の丹後侵攻
天正6年(1578年)以降、織田信長の命を受けた細川藤孝(のちの幽斎)・忠興の父子が、明智光秀とともに丹後へ攻め入った。天正7年(1579年)、義道は居城(八田城・建部山城とも)を落とされて自害した。義定は残る兵を率いて弓木城(京都府与謝野町)に籠もり、抵抗を続けた。弓木城は、戦国時代の丹後を代表する山城のひとつである。
天正8年(1580年)、光秀の仲介で和睦が成った。義定は藤孝の娘を妻に迎え、以後は弓木城を居城とした。これ以後、丹後は一色氏と細川氏が分けて治める形になったとされる。義定は京都御馬揃えや甲州征伐にも加わったとされる。
宮津城での最期
天正10年(1582年)6月、本能寺の変が起きた。義定は明智光秀に味方したとされる。一方、細川藤孝・忠興は光秀にくみしなかった。光秀が敗れて死ぬと、義定は細川氏に背いたとされ、同年9月8日、細川氏の宮津城に招かれて謀殺された。城内にいた家臣も討たれたとされる。弓木城に残った一色勢も降った。
義定の叔父・一色義清はなおも抵抗したが、討たれた。これにより、丹後守護の家としての一色氏は滅んだ。丹後一国は、その後細川氏の領国となった。
ゆかりの地
- 弓木城跡(京都府与謝野町):義定が籠城し、和睦の後に居城とした城。現在は城山公園。
- 宮津城跡(京都府宮津市):天正10年に義定が謀殺された細川氏の城。



















