松永久通 | 松永久秀の嫡男。永禄の変で将軍義輝を襲ったのは父ではなく久通。父とともに信長に背き自害

松永久通

まつなが ひさみち

地域近畿
所属勢力・属性松永氏
大名家松永氏
家紋不詳
主武器太刀
得意分野大和の支配と、父と並ぶ軍勢の指揮
衣装・甲冑塗具足
武将タイプ悲壮・梟雄の子

松永久秀の嫡男で多聞山城主。永禄8年(1565年)の永禄の変で、三好義継らとともに将軍足利義輝を襲った(父の久秀は大和にいたとされる)。天正5年(1577年)、父とともに信長に背いて敗れ、自害した。

目次

松永久通の基本データ

生没年天文12年(1543年)1月8日〜天正5年(1577年)10月
通称彦六・右衛門佐・金吾
官途従五位下・右衛門佐(永禄6年=1563年)
別名一時「義久」と名乗る
家柄松永久秀の嫡男
居城多聞山城(奈良市)
従った相手三好家 → 織田信長
得意分野大和の支配と、父と並ぶ軍勢の指揮
妻おなへ(十市遠勝の娘)
最期信長に背いて敗れ、自害(場所・日付に諸説)

久通が生きた時代

久通が生きた16世紀半ばの畿内(京都・大阪・奈良の周辺)は、阿波から出た三好長慶が室町幕府の将軍をしのぐ力をふるった時代だった。久通の父・松永久秀は、その三好家の重臣として頭角を現し、大和(奈良県)一国を任されるまでになった。

しかし長慶が永禄7年(1564年)に亡くなると、三好家は内部の対立で揺らいだ。そこへ永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて京都に上ってくる。久通の生涯は、三好家の内紛と信長の台頭という、畿内の大きな変動の中にあった。

松永家の家柄と家紋

松永氏の出自ははっきりしない。父の久秀は、摂津または山城の出身ともいわれ、三好長慶に仕えて実力で出世した人物である。久通は、その久秀の嫡男として生まれた。家紋は不詳である。以前このページでは「蔦」としていたが、裏付けは見つからなかった。

多聞山城――大和の拠点

久通の居城・多聞山城は、奈良の東大寺の北西、佐保山の丘に父の久秀が築いた城である。大きな櫓や白い壁をもつ壮麗な城で、のちの天守の先がけともいわれる。宣教師ルイス・アルメイダがその美しさを書き残している。永禄6年(1563年)ごろ、久通は父から家督とこの城を受け継いだとされる。

主君との関係と立場

久通は、はじめ父とともに三好家に仕えた。三好長慶の死後は、跡を継いだ三好義継を支える立場にあった。のちに信長が上洛すると、父とともに信長に従い、大和の支配を任された。父の久秀とは別に、久通自身も家の当主として独自に動いていたことが、近年の研究で明らかになってきている。

得意分野――大和の支配と軍勢の指揮

久通の得意分野は、大和の支配と軍勢の指揮である。父から家督を受け継いでからは、多聞山城を拠点に大和を治め、三好義継らとともに大軍を率いて京都でも動いた。父の陰に隠れがちだが、松永家の当主として軍事と政治の両方を担っていた。

永禄の変――将軍を襲ったのは久通

永禄8年(1565年)5月19日、三好義継・三好長逸らとともに、久通は1万余りの兵で京都の将軍御所を襲い、13代将軍・足利義輝を殺した。これが「永禄の変」である。

この事件は長く「松永久秀が将軍を殺した」と語られてきた。しかし近年の通説では、このとき久秀本人は大和にいて、直接は関わっていないとされる。実際に兵を率いたのは息子の久通だった。以前このページでは「父とともに将軍足利義輝暗殺に参加し」としていたが、誤りだった。

東大寺大仏殿の戦い

永禄10年(1567年)、松永家は三好家の重臣たち(三好三人衆)と争い、奈良で激しく戦った。10月10日、松永方は多聞山城から打って出て、東大寺に陣を構えていた三人衆の軍に夜襲をかけた。この戦いの中で大仏殿が焼け落ちた。

大仏殿を焼いたのは久秀だと長く言われてきたが、戦いの最中の思いがけない失火とする見方が有力である。久通個人がこの戦いで何をしたかは、はっきりしない。

信長への従属と離反

永禄11年(1568年)、信長が上洛すると、久秀・久通の親子は信長に従い、大和の支配を認められた。しかしその後、親子は二度にわたって信長に背く。元亀4年(1573年)には降伏して多聞山城を明け渡し、天正4年(1576年)には城の取り壊しにも関わった。

そして天正5年(1577年)、親子は大坂の本願寺攻めの陣を離れ、信貴山城(奈良県平群町)に立てこもった。信長の嫡男・信忠が率いる大軍が城を囲んだ。

最期

久通の最期については、記録によって大きく異なる。奈良の興福寺の僧が書いた『多聞院日記』は、10月1日に柳本城で自害したとする。一般には、10月10日に信貴山城で父とともに自害したと語られる。また、逃げる途中で雑兵に殺されたとする記録(『老人雑話』)もある。以前このページでは「信貴山城の戦いで討死」としていたが、自害説が中心で、場所にも諸説がある。

親子が信長に背く前、人質として差し出していた久通の子ども2人は、京都の六条河原で処刑された(『信長公記』『兼見卿記』)。

松永家の家族

父は松永久秀である。妻は大和の国衆・十市遠勝の娘で、おなへと呼ばれた。子には、六条河原で処刑された2人がいた。子孫が続いたとする説もあるが、伝承の域を出ない。

松永家の家系図

松永久秀
父・三好家の重臣
|
松永久通
嫡男・多聞山城主
おなへ
妻・十市遠勝の娘
|
子
六条河原で処刑
子
六条河原で処刑

※人質の子2人の名は伝わらない

松永久通の相関図

三好長慶
父が仕えた主君
織田信長
従い、のち背いた相手
松永久通
松永家の当主・多聞山城主
松永久秀
父
三好義継
永禄の変をともに起こす
足利義輝
永禄の変で討たれた将軍
織田信忠
信貴山城を攻めた大将

子孫のその後

久秀・久通の親子の死によって、大名としての松永家は滅んだ。大和は、信長に従った筒井順慶に与えられた。松永家の子孫が江戸時代に家として続いたことは確認できない。

名言・伝わる逸話

久通の名言は伝わっていない。「梟雄」と呼ばれた父・久秀の悪名の中には、実は息子の久通が行ったことも含まれていた。永禄の変は、その代表的な例である。父の陰に隠れた久通の姿は、近年の研究で少しずつ明らかになってきている。

参考にした資料

  • 天野忠幸『松永久秀と下剋上』平凡社
  • 『多聞院日記』
  • 太田牛一『信長公記』角川ソフィア文庫

このイラストについて

黒い甲冑に陣羽織をまとった武将が、刀に手をかけ、山の上の城を背にした姿です。

背景の山城は、久通が父とともに最後に籠もった信貴山城をイメージしています。厳しい表情は、父とともに信長に背き、最期を迎えた久通の覚悟を表したものです。顔立ちは想像によるものです。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

松永家

松永久秀を中心とする家。久秀は三好長慶の家宰として頭角を現し、大和を任されて多聞山城・信貴山城を築いた。

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