宇都宮忠綱 | 猿山の敗戦で宇都宮城を失った下野宇都宮氏の当主

うつのみや ただつな

地域関東
所属勢力・属性下野宇都宮氏
大名家下野宇都宮氏
家紋―
主武器太刀
衣装・甲冑華美具足
武将タイプ大名

宇都宮忠綱は戦国時代前期の下野宇都宮城主である。父成綱の跡を継ぎ、佐竹・岩城の侵攻を結城政朝の援軍で退けた。のち政朝と対立して猿山合戦に敗れ、叔父興綱に宇都宮城を奪われた。城に戻れないまま鹿沼で没した。

目次

家督相続と宇都宮家の内紛

宇都宮忠綱は明応5年(1496)生まれとされる(明応6年説もある)。父は下野宇都宮城主の宇都宮成綱である。

成綱の時代、宇都宮家では重臣芳賀氏との対立が激しくなった。永正9年(1512)ごろ、成綱は芳賀高勝を討ち、家中は内乱となった。この騒動は「宇都宮錯乱」と呼ばれる。忠綱はこのころ父の跡を継いで宇都宮城主となった。

宇都宮氏は下野の名族で、宇都宮二荒山神社の神職の家から武士となった一族である。戦国時代には芳賀氏・益子氏などの重臣を抱え、下野中部を治めていた。成綱は芳賀氏を押さえて当主の力を強めようとし、宇都宮氏の勢力を広げた当主とされる。

佐竹・岩城との戦い

永正11年(1514)、常陸の佐竹氏と陸奥の岩城氏の連合軍が宇都宮領に攻め込んだ。忠綱は下総の結城政朝の援軍を得て、これを退けた。

結城政朝は宇都宮家と姻戚関係にあり、当初は忠綱を支える立場にあった。しかし結城氏はかつての領地の回復を狙っており、やがて両家は対立した。

猿山合戦と宇都宮城の喪失

忠綱は結城政朝と戦って敗れた。この戦いは猿山合戦と呼ばれ、大永3年(1523)とする説と大永6年(1526)とする説がある。辞典類は大永6年の敗戦とする。

敗戦の間に、芳賀高経ら忠綱に反発する家臣は、成綱の弟である宇都宮興綱を擁立して宇都宮城を押さえた。忠綱は城に戻れず、壬生綱房の鹿沼城に身を寄せた。

忠綱は宇都宮城を取り戻せないまま、大永7年(1527)7月16日に没した。32歳であった。壬生綱房に謀殺されたとする説もあるが、確かではない。こののち宇都宮家では、当主と芳賀氏・壬生氏ら重臣との争いが長く続いた。

興綱の擁立を主導した芳賀高経も、のちに興綱と対立した。宇都宮家の内紛は、その後も長く続いた。

ゆかりの地

  • 宇都宮城址公園(宇都宮市):忠綱が城主を務めた宇都宮城の跡
  • 鹿沼城跡(鹿沼市):宇都宮城を追われた忠綱が身を寄せた壬生氏の城

参考にした資料

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