雑賀攻め(紀州攻め)をわかりやすく解説|信長・秀吉と雑賀孫一 — 鉄砲集団・雑賀衆の興亡

柵の陰から一斉に鉄砲を撃つ雑賀衆と、采配をふるう頭領のイラスト

戦国時代、紀伊(和歌山県)の雑賀(さいか)には、鉄砲を得意とする土豪たちの集団「雑賀衆」がいました。そのリーダーの一人として名高いのが雑賀孫一(鈴木孫一)です。雑賀衆は石山本願寺に味方して織田信長を苦しめ、信長は大軍で雑賀へ攻め込みました。そして天正13年(1585年)、羽柴秀吉が紀伊へ攻め込み、雑賀衆の時代は終わりを迎えます。この記事では、信長・秀吉と雑賀衆の戦いを、わかりやすく解説します。

雑賀攻め(紀州攻め)の基本データ

信長の雑賀攻め 天正5年(1577年)2〜3月。織田信長が大軍で紀伊の雑賀に攻め込む。雑賀衆は鈴木孫一(雑賀孫一)ら7人が誓紙を出して降伏の形をとり、信長は兵を引いた
秀吉の紀州攻め 天正13年(1585年)3〜4月。羽柴秀吉が根来寺・雑賀衆など紀伊の勢力を攻める。根来寺は焼かれ、最後まで抵抗した太田城も水攻めで開城
どこ 紀伊国の雑賀(和歌山県和歌山市のあたり)、根来寺(岩出市)など
雑賀衆とは 紀ノ川の河口の土豪たちの集まり。鉄砲の扱いにすぐれ、傭兵としても活躍した。石山本願寺に味方して信長と戦った
この後 紀伊は秀吉の弟・豊臣秀長の領地となり、雑賀衆は戦国の勢力としては姿を消した
目次

雑賀攻めを3行でいうと

  • 鉄砲集団・雑賀衆は石山本願寺に味方して信長と戦い、信長は1577年に大軍で雑賀へ攻め込んだ
  • 雑賀衆は表向き降伏したが、その後も抵抗を続けた。雑賀衆の中でも、信長に従う者と逆らう者に分かれていった
  • 1585年、秀吉が根来寺と雑賀衆を攻め、太田城の水攻めで紀州を平定。雑賀衆は戦国の勢力としては姿を消した

雑賀衆と雑賀孫一とは

雑賀は、紀ノ川の河口あたり、今の和歌山市の北西部にあたる地域です。ここに暮らす土豪たちは、特定の大名に従うのではなく、話し合いで物事を決める「惣(そう)」という仕組みでまとまっていました。海に面した土地柄から船や交易にも通じ、早くから鉄砲を取り入れて、その腕前は全国に知られていました。

雑賀孫一は、雑賀衆の有力者・鈴木家の当主が名乗った名前で、「孫一」は代々受け継がれた通称とも考えられています。とくに石山合戦で活躍した孫一は、鈴木重秀のこととされます。小説やゲームでは一人の英雄として描かれることが多いですが、実際の姿にはわからないことも多い人物です。

石山合戦と雑賀衆 — 信長を撃った鉄砲

柵の陰から一斉に鉄砲を撃つ雑賀衆と、采配をふるう頭領のイラスト
石山本願寺を守った雑賀衆の鉄砲隊の想像図。先頭で指揮をとるのが「雑賀孫一」のイメージ(イラスト)

元亀元年(1570年)から、信長は大坂の石山本願寺と10年にわたって戦いました(石山合戦)。浄土真宗の門徒が多い雑賀衆は、本願寺に味方し、鉄砲隊として城の守りの中心になります。

天正4年(1576年)の天王寺の戦いでは、信長自身が鉄砲で足を撃たれて傷を負ったと『信長公記』に記されています。雑賀衆の鉄砲の腕前は、それほど恐れられていました。

信長の雑賀攻め(1577年)

本願寺を支える雑賀衆を倒さなければ、本願寺も落とせない。天正5年(1577年)2月、信長は10万ともいわれる大軍で紀伊へ攻め込みました。雑賀衆のうち、宮郷・中郷・南郷の「三組」と根来寺の一部は信長に味方し、雑賀衆は内側から割れていました。

信長軍は二手に分かれて雑賀に攻め込みましたが、川や堀を利用した雑賀衆の守りは固く、思うように進めません。3月、鈴木孫一・土橋守重ら7人が連名で誓紙を出して降伏の形をとり、信長は兵を引きました。しかし、これは本当の降伏ではなく、雑賀衆はその後も本願寺を支え続けます。

雑賀衆の分裂

天正8年(1580年)に本願寺が信長と和睦して大坂を退くと、雑賀衆の中の対立が深まりました。天正10年(1582年)には、信長に近づいた鈴木孫一が、ライバルの土橋守重を討ちます。ところがその直後に本能寺の変で信長が死ぬと、後ろ盾を失った孫一は雑賀を離れることになったと伝わります。

秀吉の紀州攻め(1585年)— 雑賀衆の終わり

紀ノ川の河口の村々と根来寺へ海と陸から押し寄せる秀吉の大軍のイラスト
天正13年、秀吉は大軍で紀伊へ攻め込み、根来寺・雑賀衆を降した(イラスト)

信長の跡を継いで天下人への道を歩み始めた秀吉にとって、紀伊の根来寺や雑賀衆は、背後をおびやかす厄介な存在でした。小牧・長久手の戦い(1584年)では、根来・雑賀の勢力が家康方について大坂をおびやかしています。

天正13年(1585年)3月、秀吉は弟の豊臣秀長らとともに、大軍で紀伊へ攻め込みました。根来寺は焼かれ、雑賀の勢力も次々に降伏します。最後まで抵抗した太田左近らが立てこもった太田城は、秀吉の水攻めによって4月に開城しました。こうして紀伊は平定され、自治を守ってきた雑賀衆は、戦国の勢力としては姿を消しました。

なお、この1585年の戦いで鈴木孫一(重秀)がどう動いたかは、はっきりしていません。すでに秀吉に仕えていたとする説もあり、「秀吉対雑賀孫一」という対決として描かれることもありますが、史料の上では確かめられていません。

その後 — 鉄砲の技は各地へ

紀伊は秀長の領地となり、雑賀の人々は武士として大名に仕えたり、農民として土地に残ったりしました。雑賀衆の鉄砲の技術は、仕官した人々によって各地に伝えられていきます。「孫一」の名を受け継いだ鈴木家の子孫は、のちに水戸徳川家に仕えたといわれます。

雑賀攻めのゆかりの地

  • 雑賀崎・和歌浦(和歌山県和歌山市):雑賀衆が暮らした紀ノ川河口の海辺の地
  • 根来寺(和歌山県岩出市):鉄砲集団・根来衆の本拠。秀吉に焼かれたが、大塔(国宝)は焼け残った
  • 太田城跡(来迎寺のあたり)(和歌山県和歌山市太田):秀吉の水攻めで開城した城の跡
  • 鷺森別院(和歌山県和歌山市):本願寺の顕如が石山退去後に移った寺

筆者のひとこと

雑賀孫一の魅力は、やはり鉄砲撃ちとしての腕前です。そして、大名ではないところでしょうか。

この戦いに登場した主な武将

※当サイトの合戦イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが場面や構図を指定して制作した想像図です。実際の布陣や装束をそのまま再現したものではありません。

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