なかがわ ひでしげ
| 地域 | 近畿・九州 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 豊臣家→徳川家 |
| 大名家 | 中川家(岡藩) |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀・采配 |
| 衣装・甲冑 | 塗具足 |
| 武将タイプ | 堅実・名門 |
中川秀成(1570〜1612)は中川清秀の次男。朝鮮出兵中に兄秀政が戦死し、陣中で家督を継いだ。文禄3年に播磨三木から豊後竹田の岡城へ移り、豊後岡藩中川家の初代となった。関ヶ原では東軍方として臼杵を攻めた。
目次
兄の戦死で家督を継ぐ
中川秀成は元亀元年(1570)に生まれた。父は摂津の武将・中川清秀で、秀成はその次男である。清秀は天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで戦死し、兄の秀政が家督を継いで播磨三木城主となった。
清秀は摂津茨木の城主で、はじめ荒木村重に属し、のち織田信長、羽柴秀吉に従った。
文禄2年(1593)、秀政は朝鮮出兵のさなかに戦死した。秀成はその陣中で家督を継いだ。
豊後竹田・岡城へ
翌文禄3年(1594)2月、秀成は豊後竹田に移り、岡城に入った。石高は6万6000石とされる。7万石余りとする記録もある。
岡城は深い谷に囲まれた山城である。秀成の入封以後、明治維新まで竹田は中川氏の城下町であった。岡藩中川家はここから始まる。
関ヶ原と晩年
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、秀成は徳川方についた。九州では西軍に属した臼杵城主・太田一吉を攻め、家康の信任を得た。戦後、領地は安堵された。
この戦いは、豊後の佐賀関周辺での合戦として知られる。当時、九州では黒田孝高も東軍方として兵を動かしていた。
慶長17年(1612)、秀成は城下に碧雲寺の建立を始めたが、同年8月14日に43歳で没した。葬儀はこの寺で行われ、墓も営まれた。碧雲寺を含む岡藩主中川家墓所は国の史跡である。
岡藩のその後
秀成の死後、子の久盛が跡を継いだ。岡藩中川家はその後も国替えを受けず、明治維新まで竹田を治めた。
岡城は明治に入って建物が取り壊され、現在は高い石垣が残る。城跡は国の史跡で、滝廉太郎の「荒城の月」の着想の地の一つとして知られる。
ゆかりの地
- 岡城跡(大分県竹田市):秀成が入封し、中川氏が明治まで居城とした城。国史跡
- 碧雲寺(大分県竹田市):秀成が建立に着手した中川家の菩提寺。秀成の墓がある(岡藩主中川家墓所として国史跡)



















