なかがわ きよひで
| 地域 | 摂津 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 池田家→荒木村重→織田家→羽柴(豊臣)家 |
| 大名家 | 中川家 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 槍 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 猛将 |
中川清秀は、摂津の茨木城主として知られる戦国時代の武将である。荒木村重の配下から織田信長に属し、本能寺の変のあとは豊臣秀吉にしたがった。天正11年(1583)、賤ヶ岳の戦いで大岩山の砦を守り、佐久間盛政の奇襲を受けて討死した。
摂津の武士から茨木城主へ
清秀は天文11年(1542)、中川重清の子として生まれた。幼名は虎之助、通称は瀬兵衛という。
はじめは摂津の池田勝正に仕えた。のちに一族の荒木村重に属し、その配下として摂津の茨木城に入った。茨木城主となったのは元亀3年(1572)とされる。
荒木村重の謀反と信長への帰順
天正6年(1578)、主筋の荒木村重が信長にそむいた。このとき清秀は信長に帰順し、逆に村重を攻めて手柄を立てた。
天正10年(1582)に本能寺の変が起きると、清秀は羽柴秀吉にしたがった。明智光秀と戦った山崎の合戦では先鋒として活躍している。
賤ヶ岳の戦いと大岩山での最期
本能寺の変のあと、秀吉と織田家の宿老・柴田勝家は、信長の跡をめぐって対立した。勝家は滝川一益や信長の三男・信孝と組み、秀吉は信長の次男・信雄と結んだ。こうして天正11年(1583)、両軍は近江の賤ヶ岳一帯でにらみ合った。
清秀は大岩山の砦に陣を置いたが、勝家の将・佐久間盛政の奇襲を受ける。清秀は奮戦したものの、4月20日に討死した。42歳であった。辞世として「中川も今は三途の川ぞかし同じ淵瀬に身をば沈めむ」の歌が伝わる。
盛政の攻撃を知った秀吉は、その日の夜に木之本へ駆けつけ、翌21日に勝家の軍を打ち破った。勝家は越前の北庄へ逃れ、24日に自害した。清秀の死は、秀吉が天下人への道を固めた大勝利の直前のできごとであった。
子孫と豊後岡藩
清秀の嫡男・秀政は家を継いだが、文禄の役で朝鮮に渡り、水原の城で没した。そこで次男の秀成が家督を継いだ。
秀成は文禄2年(1593)とも3年(1594)ともされる年に豊後国岡(大分県竹田市)へ移り、7万石余りの大名となった。これが岡藩である。中川家は秀成のあと久盛、久清と続き、最後の藩主・久成まで13代、約280年にわたって岡藩を治めて明治維新を迎えた。清秀の家は、豊後の地で幕末まで大名として残ったのである。岡藩では清秀を家の「太祖」としてあがめた。
ゆかりの地
- 大岩山砦跡(滋賀県長浜市余呉町):清秀が陣を構え、佐久間盛政の奇襲を受けて討死した地
- 茨木城跡(大阪府茨木市):清秀が城主を務めた城の跡
- 岡城跡(大分県竹田市):子の秀成から明治維新まで中川家が治めた岡藩の城
参考にした資料
中川清秀とは
中川清秀は、摂津の武士から身を起こし、茨木城主となった武将です。
荒木村重のもとで
清秀は、はじめ摂津の荒木村重に仕えました。村重が信長に背くと、清秀は信長方に戻りました。
本能寺の変後
清秀は、本能寺の変ののち秀吉に味方し、山崎の戦いで明智光秀と戦いました。
大岩山での最期
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで、清秀は大岩山の砦を守っていましたが、佐久間盛政の奇襲を受けて討死しました。
評価
清秀は、摂津の武士から大名へと成長し、賤ヶ岳の戦いで命を落とした勇将です。子孫は豊後の岡藩の藩主として続きました。
このイラストについて
このイラストは、山と城を背に、槍を手にした清秀を描いています。
黒い兜と鋭い目つきで、戦場で勇名をはせた武将の気迫を表しました。
山の上の城は、清秀が守った大岩山の砦をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
摂津の茨木城主・中川清秀に始まる家。清秀は荒木村重の配下から織田信長に属し、本能寺の変の後は羽柴秀吉に味方して山崎の戦いに加わったが、1583年の賤ヶ岳の戦いで佐久間盛政の攻撃を受けて戦死した。
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