秀吉がまだ「木下藤吉郎」だったころから支え続けた蜂須賀小六(正勝)。大河ドラマ『豊臣兄弟!』では高橋努さんが演じています。小六は、天正14年(1586)5月に亡くなりました。家康が上洛して秀吉に臣従する、わずか5か月前のことです。この記事では、小六がいつ、何歳で亡くなったのか、死因や墓所、そして小六の死のあと蜂須賀家がどうなったのかを整理します。
蜂須賀小六(正勝)は、天正14年(1586)5月22日、大坂で亡くなりました。61歳でした。死因は病気とされますが、くわしい病名はわかっていません。
小六は四国攻めのあと阿波一国を与えられましたが、自分は秀吉のそばに残り、阿波は子の家政にゆずりました。小六の死のあとも蜂須賀家は続き、関ヶ原では家政の子・至鎮が東軍に加わって、徳島藩25万石の大名として幕末まで続きました。
秀吉の天下統一の完成も、家康の臣従も見ることなく世を去った、秀吉のいちばん古い仲間の一人でした。
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蜂須賀小六の生涯(年表)
| 年 | できごと |
|---|---|
| 大永6年(1526) | 尾張国海東郡蜂須賀村(愛知県あま市)に生まれる |
| 永禄年間(1560年代) | 木曽川の川並衆をひきいる土豪として、木下藤吉郎(秀吉)に協力。墨俣の築城を助けたと伝わる |
| 天正5年(1577)〜 | 秀吉の中国攻めに従い、毛利方との交渉役もつとめる |
| 天正10年(1582) | 備中高松城の水攻め。本能寺の変のあと、毛利家との和睦交渉にあたる |
| 天正13年(1585) | 四国攻めのあと、阿波一国を与えられるが、子の家政にゆずる |
| 天正14年(1586)5月22日 | 大坂で病死。61歳 |
| 天正14年10月 | 家康が上洛し、大坂城で秀吉に臣従する |
川並衆から秀吉の右腕へ
小六は、尾張の蜂須賀村を本拠とする土豪でした。木曽川の水運にかかわる「川並衆」をひきいていたともいわれ、まだ身分の低かった藤吉郎(秀吉)に力を貸しました。秀吉が出世の足がかりにした墨俣の築城も、小六たち川並衆の協力があってこそだったと伝えられます。くわしくは川並衆とは何者か ― 蜂須賀小六と前野将右衛門で解説しています。

有名な「矢作橋で日吉丸(少年時代の秀吉)と出会った」という話は、江戸時代に作られた物語で、事実ではないと考えられています。それでも、小六が秀吉のもっとも古い仲間の一人だったことはまちがいありません。小六の人物像は蜂須賀小六(正勝)とはもあわせてどうぞ。
戦うより「話をまとめる」人だった
小六の本当の強みは、戦場での武勇よりも、相手と話をまとめる交渉の力でした。秀吉の中国攻めでは、毛利方の城主たちを味方に引き入れる役目を果たしています。天正10年(1582)の備中高松城の水攻めのさなかに本能寺の変が起きると、小六は毛利家との和睦の交渉にあたり、秀吉が急いで京へ引き返す「中国大返し」を支えました。

阿波一国をことわった小六
天正13年(1585)、秀吉の四国攻めのあと、小六には阿波一国(徳島県)が与えられることになりました。しかし小六はこれをことわり、阿波は子の家政が受け取りました。小六自身は、大坂で秀吉のそばに仕えることを選んだのです。高齢だったこともありますが、最後まで秀吉の近くにいたいという思いがあったのかもしれません。四国攻めのあとの大名配置は四国平定の論功行賞と大名配置でくわしく紹介しています。

天正14年5月、大坂で死去
小六は天正14年(1586)5月22日、大坂で亡くなりました。61歳でした。死因は病気とされていますが、どんな病だったのかを伝える確かな記録は残っていません。

この年は、豊臣家にとって大きな動きが続いた年でした。5月には秀吉の妹・あさひが家康のもとへ嫁ぎ、10月には母の大政所が岡崎へ下って、家康がついに上洛します。小六は、秀吉が長年の宿敵だった家康を従える場面を見ることなく、世を去ったことになります。墓所は、生まれ故郷の蜂須賀村にある蓮華寺(愛知県あま市)などに伝わっています。
小六の死のあと ― 蜂須賀家はどうなったのか
| 人物 | 続柄 | その後 |
|---|---|---|
| 蜂須賀家政 | 小六の子 | 阿波の大名として徳島城を築く。秀吉の死後、関ヶ原では領地を返上して出家し、家を守った |
| 蜂須賀至鎮 | 家政の子 | 関ヶ原で東軍に加わり、阿波を安堵される。大坂の陣の功で淡路も加わり、徳島藩25万石余に |
| 徳島藩 | ― | 蜂須賀家が藩主として幕末・明治まで治めた |
小六の家は、子の家政、孫の至鎮へと受けつがれ、徳島藩の大名として江戸時代を通じて続きました。徳島の阿波おどりも、蜂須賀家の時代に広まったと伝えられています。秀吉の古い仲間の家の多くが、関ヶ原や秀次事件で姿を消したなかで、蜂須賀家は最後まで生き残ったのです。
【考察】小六が生きていたら
ここからは筆者の考えです。小六が亡くなった天正14年からあと、豊臣家では秀長の死、秀次事件、朝鮮出兵と、苦しい出来事が続いていきます。秀吉にとって、出世する前の自分を知り、遠慮なくものを言える仲間は、ひとり、またひとりといなくなっていきました。
小六は、秀長と並んで、秀吉が「ただの藤吉郎」だったころを知る数少ない人物でした。話をまとめる力にすぐれた小六が長生きしていれば、秀吉と家臣たちのあいだを取りもつ役目を、秀長とともに果たしていたかもしれません。
まとめ
蜂須賀小六(正勝)は、天正14年(1586)5月22日、大坂で病のため亡くなりました。61歳でした。川並衆として秀吉を支え、中国攻めでは交渉役として活躍し、阿波一国をことわってまで秀吉のそばに残った人物です。小六の死の5か月後、家康が上洛して秀吉に臣従しました。小六が築いた蜂須賀家は、徳島藩として幕末まで続いています。


























