とよとみ つるまつ
| 地域 | 近畿(山城・淀) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 豊臣氏(秀吉の嫡男) |
| 大名家 | 豊臣家 |
| 家紋 | 五七桐 |
| 主武器 | ― |
| 衣装・甲冑 | 幼児の装束 |
| 武将タイプ | 幻の後継者 |
豊臣鶴松(とよとみ つるまつ)は、豊臣秀吉と淀殿(茶々)のあいだに生まれた最初の子である。天正17年(1589年)に生まれ、天正19年(1591年)に数え3歳で亡くなった。53歳でようやく男子を得た秀吉は鶴松を跡継ぎとしたが、その早すぎる死は、甥の豊臣秀次を後継者とすることにつながり、豊臣家の運命を大きく変えた。
3行でわかる豊臣鶴松
- 秀吉が53歳で得た男子で、淀城で生まれた
- 生まれてすぐに跡継ぎとされ、大坂城に移された
- 数え3歳で亡くなり、秀吉は甥の秀次を後継者とした
目次
待望の跡継ぎ
天正17年(1589年)5月、秀吉の側室・茶々は、秀吉が茶々のために整えた淀城(京都市伏見区)で男子を産んだ。これが鶴松である。茶々はこのことから「淀殿」と呼ばれるようになった。
秀吉はそれまで跡継ぎとなる男子に恵まれず、53歳で得た鶴松を大いに喜んだ。鶴松は生まれて間もなく大坂城に移され、秀吉の跡継ぎとされた。
早すぎる死
しかし天正19年(1591年)、鶴松は病にかかり、8月に淀城で亡くなった。数え3歳だった。秀吉は深く悲しみ、自らの髻(もとどり)を切って喪に服したと伝わる。同じ年の1月には、秀吉を支えた弟の豊臣秀長も亡くなっていた。
豊臣家の運命
鶴松の死を受けて、秀吉は甥の豊臣秀次を養子とし、関白の地位をゆずった。ところが文禄2年(1593年)に淀殿が秀頼を産むと、秀吉と秀次の関係は悪化し、のちの秀次事件へとつながっていく。
秀吉は鶴松の菩提を弔うため、京の東山に祥雲寺を建てた。この寺のために描かれた長谷川等伯らの障壁画「楓図」「桜図」は、現在の智積院に伝わり、国宝となっている。
豊臣鶴松をめぐる人物
- 父:豊臣秀吉
- 母:淀殿(茶々)
- 弟:豊臣秀頼
- 叔父:豊臣秀長
- 後継者となった人物:豊臣秀次
ゆかりの地
- 智積院(京都市東山区):鶴松のための祥雲寺の跡に建つ寺。等伯一派の障壁画が残る
- 淀城跡(京都市伏見区):鶴松が生まれた城の地(現在の淀城跡は江戸時代の城)


豊臣秀吉
淀殿
豊臣秀頼
豊臣秀次
豊臣秀長





































